(山形県 寒河江市)毎年9月14日・15日
※9月14日・15日が平日の場合は、後の土日
鎌倉武士の伝統を受け継ぐ勇壮な流鏑馬神事
寒河江八幡宮は、今から約830年前の建久2年(1191)、大江親広によって勧請されました。親広の父、広元が鎌倉幕府の重臣だったので、寒河江も鎌倉とそっくりのまちづくりをし、寒河江城の西に八幡宮を置き、流鏑馬(やぶさめ)を導入しました。寒河江城古絵図の八幡宮のところに馬場が描いてあり、また八幡宮拝殿に宝暦12年(1762)の流鏑馬絵馬が残っていることからも流鏑馬が行われていたことがわかります。
寒河江八幡宮例大祭、流鏑馬を始めこの期間中に行われる「寒河江まつり」は、神事に加え様々な催し物が開催されます。生命を慈しみ、殺生を戒め、全ての御霊を慰めるため、生きた魚や鳥等を放つ「放生会」や巫女舞、神楽舞、雅楽の演奏をする雅びな夜会である「神楽の夕べ」、祭りの到来を知らせる「臥龍太鼓」などがありますが中でも約4千人の担ぎ手が集う「神輿の祭典」は東北屈指の規模を誇り、3種の神輿が共演する全国でも大変珍しい神輿祭りです。
寒河江八幡宮では江戸時代のなかごろまで、本格的に、走る馬上から的を射る流鏑馬が行われていました。9月に入ると祭りの準備が始まります。昔は村山地方一円から数頭の馬を選びそれぞれが分担して馬場の柵結い、馬の世話、行事の準備をしました。9日から1週間、馬に乗る人と京参乗り(きょうさのり)という男の子が八幡宮にこもって身を清めて祭りにそなえました。現在は一週間もおこもりはできなくなりましたが、節目の行事は「流鏑馬保存会」の人たちにより、今もしっかりと守り伝えられています。12日、3頭の馬が来て、馬場ならしと鞍祭りを行い、安全を祈ります。
14日・15日がいよいよ全国的にも珍しい「馬走り」の本番です。神事のあと、「古式流鏑馬」を行います。保存会の射手たちが、次々に3つの的に走る馬上から矢を射ます。命中するたび、バシッと大きな音がして、観客から歓声が上がります。3本の矢を全部当てた人は、京参乗りから白い布を褒美に贈られ、これはもらう時、弓で受け取るのです。
さらに15日には翌年の稲の作柄を占う「作試し流鏑馬」が行われます。少年が金棒を引いてきて、そのあと3頭の馬が走ります。一の馬、二の馬、三の馬と早い順に出発させるのですが、その年によって勝負の順番は変わります。順序よくゴールした年は作柄は順当、一の馬が勝つと早稲(わせ)、二の馬が勝つと中稲(なかて)、三の馬が勝つと晩稲(おくて)が豊作と予想するのです。
「馬走り」は昔から寒河江の秋の風物詩でした。寒河江地方は、平安時代から有名な馬の産地でした。このことも馬走りが続いてきた理由かもしれません。この寒河江八幡宮流鏑馬は現在では山形県無形民俗文化財に指定されています。
寒河江八幡宮
山形県寒河江市八幡町5-70
アクセス
車◉山形自動車道 寒河江ICから約15分
電車◉JR左沢線 西寒河江駅 下車徒歩約10分
(タクシーご利用の際は寒河江駅で降りてください)
寒河江八幡宮の起源
山形県寒河江市にある寒河江八幡宮は、この地に勧請して九百有余年の格式ある神社です。出羽国風土記・古社縁起等に依れば、西暦1060年、源頼義・義家奥州平定(前九年の役)の祈願をし、八幡宮をお祀りし、神主一人を置き三千坪を奉納したのが始まりです。以来、寒河江荘の総鎮守として歴代尊崇変わる事なく氏子に維持され、神威ますます厳然として現在に至っています。
取材後記…
流鏑馬で活躍する神馬は十和田乗馬倶楽部に属しています。この十和田乗馬倶楽部では毎年4月に『桜流鏑馬』10月には『世界流鏑馬大会』が開催されます。ぜひチェックしてください!文/邦馬
取材協力・文章/写真提供
寒河江八幡宮
https://www.sagae-hachimangu.org
0237-86-6258
寒河江市役所 さくらんぼ観光課・生涯学習課
0237-86-2111
参考・引用文献/平成24年3月市立図書館発行
「寒河江の人物・行事リーフレット」より
十和田乗馬倶楽部
http://towada-joba.com/
0176-26-2945