(千葉県富津市) 毎年9月中旬開催
日本武尊(やまとたけるのみこと)と弟橘姫(おとたちばなひめ)の伝承にちなみ神馬は海岸を疾走します。
馬だし祭りは言い伝えがその起源とされています。その言い伝えとは『日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征により、走水(現在の三浦海岸)から船出して上総国(房総)へと向かったときのこと、大風により海が荒れ狂い難船しそうになりました。
このとき日本武尊にお伴していた妃である弟橘媛(おとたちばなひめ)は、海神の怒りを鎮めようとして海に身を投げます。すると荒波が鎮まり、日本武尊は無事に上総国へ上陸することができた。』というものです。
弟橘媛が身を投げて七日後、弟橘媛の櫛が岩瀬海岸に流れ着き、どこからともなく現れた馬がその櫛をくわえて、神社のある海が一望できる吾妻山の頂き(吾妻神社)まで駆け上がった、という伝承から吾妻神社は、その弟橘媛を祭神としています。
吾妻神社は土地の人々から「おあづまさま」と呼ばれており、もと吉野郷といわれた上・近藤・八田沼・絹・西大和田・中・岩瀬旧7村の氏神様です。吾妻神社の例大祭は、「馬だし」「オブリ」「神輿」を中心とする神事が繰り広げられ、五穀豊穣や海上の安全、そして大漁を祈願する祭礼です。そして、弟橘媛にまつわる伝説に因んだ神事である「馬だし」は、それら祭礼の一部としておこなわれ、岩瀬海岸での神馬の疾駆に見物客が集まることから「馬だしまつり」の名で知られています。
吾妻神社例大祭は「オブリ神事」ではじまります。「オブリ」(魚振り)とは神前に供える魚のことで真竹2本を切り揃えて束ね、その中央部に出世魚(イナダ)7対を吊して作り上げたものです。これを若衆(白丁)が神輿のように揉みながら担ぎあげ吾妻神社を目指して練り歩き、鳥居前では「オイサ、オイサ」の掛け声とともに腕を組み揉み合いながら神社へと登っていきます。
拝殿にオブリを奉納し大漁を祈願し、オブリ神事が終了すると神輿の担ぎ出しがはじまり、神馬の鞍には神霊である幣束がつけられ、神馬は神社を下り海へと向かいます。かつては氏子旧7村のうち、岩瀬・中・絹・西大和田からそれぞれ1頭の雄馬が用意されていましたが、このうち最高至貴の馬を「オメシ」(お召し)といい、また「結い上げ」と称する腹巻に、純白の布団を背に何枚も敷き重ね飾られます。副神馬は「だし馬」もしくは「客馬」、「とめ馬」と呼ばれ、腹にユイアゲ、背に友禅模様のフトンを重ねて飾り、その上にオメシのものより小さな幣束を立てます。
神馬は神輿の出発に先立って下山し、各地区を巡ったあと、岩瀬の浜に出て馬だしが行われます。神馬は1度、副神馬は3地区分、両脇にしがみついたオメシ番の白丁とともに疾走し、神馬の疾走に続いて副神馬の疾走もおこなわれます。馬だしが終わると、神馬から幣束がはずされ、弟橘媛の遺品が漂着したとされる場所に掘った穴に埋納されます。
神事を終えた神馬と副神馬は、砂浜をさらに数回疾駆した後、吾妻神社へ帰還します。神馬と副神馬が海岸をあとにすると、神輿渡御の一行が海岸に到着し海岸では、白丁たちが神輿ごと海の中に入る「お浜出」がおこなわれます。
馬だしやオブリ神事は、このような飾り神輿が出現する以前の古い形態を残す祭りとして、大変貴重なものです。弟橘媛様も天上で温かい目で見つめながら、お祭りを見守っているに違いありません。
吾妻神社
千葉県富津市西大和田98
アクセス
車◉館山自動車道富津中央ICから国道127号線を「君津」方面へ、県道287号線を「大貫駅」方面へ約10分
電車◉JR内房線大貫駅下車、徒歩約30分
吾妻(あずま)神社の起源
日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の際に走水(三浦海岸)から船出し上総国(房総)へ向かう途中、大風により難船しそうになった。お伴していた妃の弟橘姫(おとたちばなひめ)は海神の心を鎮めようと入水したところ荒波は治まり日本武尊は無事上総国へ上陸した。後日、富津市岩瀬の海岸に弟橘姫の櫛が漂着し、この遺品を馬が祀ったとするのが起源とされています。
取材後記…富津市の名前の由来として『布流津』が起源になったという一説があります。富津岬の布引海岸には弟橘姫の衣が流れ着き、海岸近くの貴布祢 神社に祀られています。日本神話に残る、むかしむかしの物語。富津には日本武尊と弟橘姫の軌跡が数多く残されています。 文/邦馬
取材協力
千葉県富津市生涯学習課
お問合せ 0439-80-1342