UMATOに寄稿させていただく事になりました田中一征と申します。
長年厩務員として働いてきた中で見聞きしてきた馬や人の出来事を綴っていきたいと思います。
初回は僕が厩務員になったきっかけをご挨拶代わりにお話させていただきます。
テンポイントと山田厩務員
1978年1月22日、高校2年の冬。野球部の練習が休みになったので部員数人で友人宅に集合した。テンポイントの海外遠征前の壮行レース「日本経済新春杯」を競馬好きメンバー皆で応援するためだった。テンポイントは前年の有馬記念でライバルを一蹴し年度代表馬に選出。その強さもさることながら端正な容姿で「貴公子」と呼ばれ全国区の人気を誇っていた。
僕たちは楽しく騒ぎながらテレビを見ていたのだが、レース中の悪夢の骨折~競走中止の後は重苦しい雰囲気になり誰かの「もう解散しよ」の一言で終了。帰り道で涙が止まらなくなったのを今でも覚えている。
その後、手術をしたテンポイントの闘病生活が多くのメディアで報道され、死んだその日の記者会見の模様は夜の報道ニュースで流されるという異例の扱いだった。馬主、調教師、騎手が思い出を語っていく。最後に厩務員の山田さんにマイクが向けられた。「テンポイントが死んだのに、話なんかない!」とだけ喋り号泣して顔を伏せた。「厩務員、何と熱い仕事なんや…」この出来事はまさしく僕の人生のターニングポイントとなった。
1982年、中央競馬会が騎手と厩務員を幅広く集める為、競馬学校を開校。
僕は会社員だったが退路を断つ為に退職し競馬学校の試験を受けた。無事合格し学校で学んだ後、翌年の1983年から栗東トレーニングセンター伊藤雄二厩舎で勤務する事となる。
それから十数年経ったある日、阪神競馬場で担当馬のレースがあり、同じレースに山田厩務員がいた。結果は僕が1着、山田さんは3着。3着までの馬は検体採取所(採尿)に行く。そこで初めて山田さんとちゃんとお話させていただいた。「山田さんがいなければ僕は厩務員になっていません」と僕が言うと「それは嬉しいな…俺も年取ったけどな」と苦笑いされた。
山田幸守厩務員2018年逝去、享年73歳
時はもっと流れて令和。
僕が引き馬していると知らない若い調教助手が僕に近づき馬上から喋りかけてきた。「エアグルーヴの田中さんですよね!僕は田中さんとグルを知って競馬の世界に入ろうと決めたんです。」
こうして人と馬は繋がっていく…