2024年6月、来年定年を控えた僕の最後の北海道出張で函館競馬場に連れて行った担当馬の1頭に、3歳1勝クラスの栗毛の牡馬がいた。愛称は下の名前のアントニオから取ったトニ男。
普段は人懐っこくて可愛い馬なのだが、遠くでも牝馬を見つけると、いつもギャンギャン鳴き出す牝馬大好きの、いわゆる「馬っ気の強い」馬だ。
しかし競馬や調教になるとビクビクして興奮したり暴走したりする典型的な「ヘタレ馬」で、栗東から京都、阪神、中京の当日輸送競馬になると朝からレースを察知して落ち着かず、出発前の朝飼葉もほとんど食べなくなる。
今回の函館長期滞在は栗東トレセンとは違い、競馬場のコースで毎日調教する。競馬を知っている馬にとって初めのうちはかなりのストレスだ。
もちろんトニ男も例外ではなく、函館競馬場に着いてからはとにかくずっと緊張していて、調教でも興奮して立ち上がり、騎手を振り落としたりもした。
そんなトニ男だったが滞在1週間ちょっとで函館開幕週のレースを使って見事勝利。11番人気単勝5410円の大穴でスタッフが皆びっくりした。
競馬を使った後は少しマシになるかと思ったが全く変わらず、毎日調教でも厩舎でも興奮していて、一番大事な朝の飼葉は残しがちだった。
ローカル競馬場の厩舎はトレセンと違い、間隔が狭く建てられているので、裏の窓や扉を開けると、すぐ裏の厩舎の洗い場が見える。
今年のうちの厩舎の裏は短期滞在の特別馬房厩舎で、最初の頃は馬が入ってなかったが、少しして入厩しだして、洗い場に馬が繋がれるようになった。
トニ男は生まれて初めて、自分の馬房の裏で他の馬のお尻を見た。
それからのトニ男は一変した。
裏の洗い場に牝馬が入ると、飼葉を食ってる途中でも、すぐ後ろを向いてじーっと見てる。いつも外で牝馬を見つけた時は、こっちの耳がキーンとなるくらい大声で鳴き叫ぶのに微動だにせず静かに鑑賞している。
人間で例えるなら、思春期の少年が自分の部屋の窓開けたら、隣の家の部屋の窓が開いていて同世代の女性が生着替えしていたみたいな…?
しかも毎日同じ時間帯で、それを見つからないよう、そーっと見てる感じかな?
それからというもの、トニ男は飼葉も乾草も残すことなく食べるようになり、運動も調教も見違えるくらい真面目で大人しくなった。人間もだが趣味というものは心を落ち着かせるものなのだ。
そんなトニ男の至福の時間も終わる日がやってきた。特別馬房厩舎というのは開催が終われば使われなくなるのだ。もう裏の洗い場に牝馬が入ることもなくなった。
トニ男の短くも儚いひと夏の青春は終わりを告げた。