6月1日(日)
馬運車で栗東を9時少し前に出発し、10時過ぎに京都競馬場に到着。
1983年1月4日から栗東トレセンに配属され、42年と半年が経った。
事務的な定年退職日は7月9日(水)だが、残った有給休暇の消化に入るので、事実上この日が最後の仕事の日となり、担当馬との最後のレースとなる。
僕が担当馬で初めて競馬をしたのは、1983年3月5日、阪神競馬場での2歳新馬(当時3歳)で、牝馬のグンターレディ、鞍上は内田国夫騎手だった。
7着だったレース内容などは全く覚えていないが、緊張していたのと、友達がパドックに応援に来てくれた事だけ鮮明に記憶している。

それから42年と3ヶ月が過ぎ、とうとう最後のレースを迎えた。
かと言ってレース前に、そこまで心が熱くなったり緊張していたかと言えば、ごく普通だったような気がする。
やはりここ数ヶ月、そして前日の東京競馬から気を張って仕事していたので、その疲れが最後に出ていたのかもしれない。

42年とちょっと、編み続けてきたタテガミも、この日が本当に最後。
これから後にヘルパー嘱託バイト(疾病などで欠員が出た厩舎の補充員)をやって、馬をレースに出したとしても、自分の担当馬ではないので編み込みはもうやらないだろう。


さすがにこの時ばかりは「今までたくさん編んできたなぁ」と、少し感傷的な思いになりながら、ゆっくりと編み込みをした。
仕上げに小林オーナーの勝負服カラーとして、黄色地に赤のテープを巻いた。

先に述べたヘルパーとして、この先パドックを馬と歩く事はまたあるかもしれないが、厩務員としてはこれが最後のパドックだ。
最初の1周目で、もう数人の知り合いと目が合った。それから何周か回ったら、居るわ居るわ……もう数えるのが面倒くさいくらいの多くの知人がいた。
僕が最後のレースと聞いて、わざわざ駆けつけて来てくれた人ばかりだが、気付かなかった人を入れると、30人近くはいたと思われる。


この最後のレースには、僕が一番乗ってほしかった藤岡佑介騎手が騎乗してくれた。
もちろん佑介は、僕が主役としてなら裏番組にあたる日本ダービーに乗るのがベストなのだが、もし乗っていなかったらの淡い期待だった。


佑介とは、直前に馬場近くで会って「前回は康太と一緒に乗ってくれてありがとう!俺の最後のレースは佑介1人で乗ってな!」と言うと「分かりました!」と笑顔で答えてくれた。

枠順が1番枠ということで、後手を踏むと砂被って嫌がり、スピードダウンする可能性がある馬なので、スタート五分以上なら逃げるという作戦だった。
その通り、スタートはほぼ五分だったので、押して行って先頭を走ったトニ男。
しかしペースが早く無理して逃げた分、最後は失速して最下位。

僕が最後なので、7ヶ月半ぶりなのに入厩3週間でレースに出すという急仕上げだったトニ男。
そんな状態でまさか逃げれるとは思っていなかった。やはりこの馬の能力は高いと思う。
そしてレースが終わり、帰って来る時にアクシデントが起こった。
全力を出し尽くしたトニ男は、いわゆる筋肉無酸素状態になり脚が前に出ず、地下道に降りる直前のダートコース上で、大きく躓いて落馬。
手綱が脚に引っかったまま動けなくなった。幸いにももう余力が無かったので動かずにいてくれて大事には至らなかった。




佑介は苦笑いしながら「田中はんの最後にオチつけてしまってすみません!」と言ってくれたが、僕は佑介の身体のほうが心配だった。
でも人馬ともに大事には至らず、本当に良かった。

梅田調教師と奥さんが、僕にフラワーセレモニーを用意してくれていたのだが、このアクシデントでウダウダになってしまった。
花束を受け取り、サッとお礼をしただけで終了。


アクシデントはあったものの、梅田調教師夫妻、厩舎の同僚、藤岡健一調教師、そしてたくさんの友人と、大勢の人に見送られて無事最後の日を終わることができた。
「ほんとうに皆さん、僕みたいな普通のしょーもない人間と、長い間お付き合いしてくれてありがとうございました!これからもよろしく!」
「それとトニ男!まだ体力戻ってないのに、全力で走ってくれてありがとう!お疲れ様!」

レース後の洗い場で、まだ息が整わないトニ男を見て、今日初めて涙が溢れてきた。