この馬シリーズは久しぶりで去年の11月以来だが、現役厩務員生活の最後という時期になり、そちらの話を優先したので後回しになってしまっていた。
エアグルーヴやファインモーションなどは「ウマ娘」などの影響で現役時代を知らない人達などからも「大好きです!」という言葉も今だにちょくちょくいただく。
グルーヴは特にプライベートのオフショット写真やファンからもらった写真などがたくさんあるし、内々のドラマもかなり多い馬だった。この馬に関してはかなり長い物語が書けそうなので、このシリーズで長編物としていつかお届けしたいと思う。
「厩務員の運」で書いたように、僕たち厩務員が担当馬でGレースを勝つというのは、技術や腕とかではなく、色々な運やターニングポイントの選択などの積み重ねの結果といえる。
腕の確かな持ち乗り調教助手も、能力のない馬を自分の騎乗技術で出世させるのは無理だ。やはり運はかなり必要だろう。
エアグルーヴなどの名馬の物語を書くには、僕がそのような幸運を掴むにいたった、それまでの担当馬たちの歴史を話さずには語れない。
前回までの馬シリーズでは、僕がこの馬社会に入って間もない1984〜1988年頃の、とてもうるさく全てが勉強だった「マチカネコーシ」と、可愛くて大人しく、レースで死んでしまった「マチカネコイノボリ」の話をさせてもらった。
今回はその続きとして、この馬を紹介したい。
センターグレイバー (牡、父 ノーザンアンサー 母 センターアニー 1988〜1990年 伊藤雄二厩舎在籍)

1988年2月、マチカネコイノボリをレースで死なせてしまった僕の心のダメージは相当酷く、しばらく腑抜けのような生活をしていた。
そんな時、2歳新馬として担当したのがセンターグレイバーだった。動きが機敏で、立つわ蹴るわ跳ねるわと、マチカネコーシのミニチュア版ともいえるやんちゃでうるさい馬だった。
全然歩かず、引き運動していても一定のリズムを刻んでいる感じでずっとダク。その上タテガミがチリチリのロープ状でドレッドヘアみたいになっていて、当時ミリ・ヴァニリなどレゲエ風の洋楽が流行っていた事からアダ名は「レゲエ」に即決。 扱いは大変だったが、何故か憎めないお茶目なレゲエのおかげで、コイノボリの死の悲しみは徐々に薄れて、また厩務員の仕事の楽しさを取り戻してきた。
北海道でデビューしたレゲエは、上位入線を続けたがソエ(管骨骨膜炎)などを発症してしばらく放牧。明けた1989年にはすぐに未勝利を脱出した。
当時はまだオーナーの勝負服メンコも少なく、厩舎カラーメンコなどは皆無で、厩務員が個人個人好き勝手にメンコを選んでいた。僕も自費で生地からメンコを作るのにこだわっていた時代で、ロッキー(映画)メンコや鯉のぼりメンコなどを作ったが、この馬はやはりアダ名の通りレゲエ風メンコにしようと決めた。


そのデザインは、レゲエの本場、ジャマイカの国旗に音符をつけたもの。
このメンコはレゲエが3歳になってこの馬のパドック専用として作り、明け3歳になってから4ヶ月弱の間に①②①②①という素晴らしい成績で、上のクラスまで一気に駆け上がった。

今のようにSNSなど無かった時代、パドックでファンの人も「このメンコ何の意味?この人レゲエが好きなの?」と思っていただろう……馬のアダ名と知っている人はごく少数で、まさに僕の自己満足だけだった。



レゲエはこの後、精力的にレースに出走したが、翌1990年に屈腱炎を発症して抹消となった。
この話には続きがある。
この馬の為のみに自費で作ったレゲエメンコだが、トレセン野球部の後輩、平木富康厩務員(現 高橋一哉厩舎)がジャマイカに新婚旅行に行くくらいレゲエ好きだと聞いて、このメンコをプレゼントしたのだ。
彼はこのメンコがボロボロになるまで使ってくれた上、その後彼自身が2代目3代目のジャマイカメンコを作って、自分の担当馬に付けてレースに出走させていた。
飯田祐三厩舎時代は、担当馬ローレルベローチェの重賞レースにもこのメンコで出走。



彼はこのメンコを担当馬に愛用し続けたが、現在の厩舎は厩務員個人のメンコは使えないらしい。でもまだ輸送用とかにひっそり使っているという事だ。
僕にまた厩務員の楽しさを復活させてくれた「レゲエ」センターグレイバーとの思い出は、このジャマイカ国旗メンコとともに今でも鮮明に浮かんでくる。