僕たち競馬学校厩務員課程3期生は1982年10月、千葉県白井市にある競馬学校に入学した。
騎手課程は1期生の1年目で、現在現役なのは柴田善臣騎手ただ一人だ。
この施設は美浦トレセンがまだ無かった頃、中山競馬場のトレセンとも言える白井分場だったが、その跡地を最大限利用して作られた。
僕たちの時代はまだ新築はほとんどなく、厩舎構内などや馬場は白井分場のまま再利用されていたが、数年後に厩舎や寮なども新築したりリフォームしたりしたようだ。
今話題の競馬ドラマ”ザ・ロイヤルファミリー”の中で、美浦トレセンの厩舎内という設定のシーンがあるが、現在の競馬学校の厩舎が使用されている。

厩務員課程の現在の寮(寄宿舎)は、男性が前半3ヶ月は2人部屋で後半3ヶ月が1人部屋。女性は6ヶ月ずっと1人部屋だそうだ。
でも僕らの時代はタコ部屋で、広い部屋に4〜5人が生活していた。各自のロッカーの前に布団を敷くだけのスペースが自分の居場所だった。
さすがに”軍隊やんか……良く言っても学生の修学旅行やな”と思った。プライベートは全くない生活だった。
僕たちはまず、馬が数頭入った複数の厩舎に2人〜3人ずつ配属された。
その厩舎に騎手課程の生徒も1人ずつ配属されていたが、共同で行うのは厩舎作業や飼葉付けなどだけで、その他は全くの別行動だった。
そしてすぐに乗馬訓練や授業が始まり、13人中僕を含めた乗馬の素人6人の地獄の日々が始まった。
最近の競馬学校の厩務員課程の生徒は、馬術部出身や牧場の仕事として競走馬に乗っている人しかいないので、ほぼ基本は無しで実戦のみ。乗る時間もそんなに長くないようだ。
でも僕らは本物の初心者だったので、朝早くからと、午後からも馬乗りがあり、その合間の数時間は馬学や競馬法などの授業。
朝5時くらいから夕方5時まで、昼の休憩1時間を抜いても1日10〜11時間は何かしらの訓練や勉強をしていた。
あまりの過酷なタイムテーブルだったので、昼間の授業のあまり怒らない優しい馬学の先生の時間には、半分くらいの人が寝ていた記憶がある。
乗馬の初心者が毎日のように馬に乗ると、下手くそなので反動がうまくとれず、まず最初に尻が打撲で痛くなり、そのうち皮がめくれたりして更に激痛と戦う事になる。
もちろん僕は3ヶ月で2ケタの落馬数となり、体はボロボロだった。


僕は身長が高いほうだったので(177cm)、体重管理がとても厳しかった。
抜き打ち体重測定などで60kgを超えると次の日までに落とさなくてはいけないので、そんな日は晩飯はほとんど食わずに、食後の自由時間にずっとランニングをしていた。
そんなマイナス要素もあったり馬乗りも下手過ぎたので、その分勉強はかなり頑張った。
卒業試験まで多分ほとんどのテストで満点を取っていたと思う。
在校中、楽しい思い出は少なかったが、研修で牧場、馬事公苑、美浦トレセン、中山競馬場などに行った時は楽しかった。
ピュアな若者だった僕は”いつかこんな風に自分の担当馬をもらって、パドックでお客さんの前に出るんやな…”などと、変な緊張感と責任感が溢れてきていた。



そしてもう一つ忘れないのが、当時この競馬学校に海外馬の検疫所があり(現在は各競馬場にある)、僕たちの10月生の時期に第2回ジャパンカップ出走馬たちがやって来た事だ。
特にジョンヘンリー(生涯39勝、内G1が8勝)が調教していると、皆仕事の合間に調教スタンドへ行き、ロックスターのようにかぶり付きで観ていた。

全員の卒業が無事決まったクリスマスの日には、クリスマス会が行われご馳走が振る舞われた。
僕が台本を書き、同僚のギター演奏を組み合わせたプチコントなども披露。
こうして、短くも長かった3ヶ月間は終わりを告げた。


競馬学校は僕たちの時代から少し経ってから、競馬人気も重なってか、かなりの倍率で狭き門になっていった。
僕たちは在学中何もかも全て無償だったが、入学の倍率が上がっていた頃は乗馬に使う服や道具、食費など全部自己負担となり、6ヶ月間の収入ゼロを含め家族持ちや社会人などが受けるにはかなり厳しいシステムとなっていたようだ。
しかし昨今の入学希望者の減少に伴い、数年前から競馬学校の入学に関してのシステムが徐々に変わってきている。
年齢制限も撤廃され、来年からは卒業後にも使用できる物(乗馬用具など)以外は全て無償になる。
競馬学校も時代とともに、大きな変革期がやってきたのかもしれない。
”ザ・ロイヤルファミリー”の人気なども追い風として”競馬の中の世界って面白そう!”と、多くの人が競馬社会に興味を持ち、厩舎人を目指してくれるのを心から願う。
そして競馬学校にこれから入学する、または試験を受ける人達に大きなエールを送りたい!
”夢に向かって頑張れ!”






