このシリーズは、馬に携わる人の中で僕が尊敬する人や大好きな人を紹介するというもの。
今まで伊藤雄二調教師と矢作芳人調教師の2人の話を書かせてもらったが、馬シリーズと並行してまた再開させていただく。
僕の唯一の師匠である伊藤先生はともかく、この人シリーズに好きな順番などのランキングはなく、時代の順番もない。
僕が競馬社会で見聞きした楽しい人や素晴らしい人々を、時系列は無視して語っていきたい。
再開するにあたり、前々回の「エピソード0、競馬学校編」のように、この馬社会に入る前の話も少し書いておきたいと思ったので、久しぶりの人シリーズはそんな昔のホースマンとその息子さんの物語をお送りする。
1982年1月31日、競馬学校の試験を受けることを決意していた僕は、京都競馬場のパドックにいた。
1979年、静内でのセールで当時最高である1億8500万円で落札された「ハギノカムイオー」のデビュー戦を観るためだ。
それまでの日本のセリでの最高額が5000万円だった事もあり、一般のニュースでも紹介されかなり話題になった馬だった。
パドックでハギノカムイオーを引っ張っていたのは、伊藤修司厩舎の山吉弘厩務員。
山吉さんがこの馬の担当になったのには、今の時代ならありえない凄い物語があった。
でもこの時の僕はそんな話は知る由もなく、自分がいつか厩務員になってこんな凄い馬を担当している姿を夢見ながら、単勝馬券を握りしめていた。

1979年1月6日、京都競馬場で行われた3歳牝馬のオープン特別「紅梅賞」(現 中京の紅梅ステークス)で、伊藤修司厩舎のハギノカオリが快勝した。
しかしゴール入線後、骨折が判明。
右後肢の管骨複骨折で、予後不良の診断が下された。
前年のテンポイント(僕が厩務員になったきっかけ参照)と同じく、後ろ脚の複雑骨折だった。
テンポイントが手術を強行して闘病の末亡くなった事を考えても、安楽死という判断になると思われたが、「何とか命だけは助けてやってくれ」という日隈広吉オーナーの願いで、手術が行われる事になった。
手術は一応成功したが、馬の大きな骨折というのは術後が問題。
大きな身体を支える脚が地面に付けないと、他の脚が蹄葉炎という重篤な疾病になる可能性が高く、テンポイントもそれで亡くなった。
その他に、少し良くなっても馬房で寝起きの際に踏ん張った時などに再び骨折する事例もあり、そうなればもう2度目の手術はなく、安楽死となる。
つまり術後は、予断を許さない状況が数ヶ月続く事になるのだ。
ハギノカオリを担当していたのは、前記の山吉弘厩務員。
そして大手術の後、山吉さんとカオリの壮絶な闘病生活が始まった。
獣医師たちも前年のテンポイントの教訓を生かし、カオリの手術から術後まで最大限の処置をしてきたが、やはりハードルは高く、いつどうなるかは運のようなものだった。
山吉さんはカオリが厩舎に帰ってきてから、馬房の前に畳を敷いて布団などを持参し、そこで暮らすことにした。
何かあった時にすぐ対処したり、獣医師を呼んだりできるようにするためだ。
食事やお風呂に入る時は、当時中学3年生だった息子の一弘君(現 中村直也厩舎厩務員)が交代でカオリを見ていたそうだ。
カオリ以外の担当馬の競馬の日は、仲の良かった厩務員さんにカオリをお願いして、日帰りの競馬場のみ行っていた。
一弘君も学校帰りには毎日のように厩舎へ行き、カオリのお世話をしていたらしい。
生活の全てをカオリに費やした、献身的な山吉さんの看病のかいもあり、カオリは奇跡的に命を取り留めた。
何と、山吉さんの24時間態勢の厩舎での寝泊まりは、1年以上も続いたそうだ。

そしてカオリは最後の治療として、福島県のいわき温泉にあるJRA競走馬総合研究所常磐支所(現 JRA競走馬リハビリテーションセンター)へと行くことになった。
山吉さんも同行して毎日温泉治療を施し、2ヶ月が経ち、ようやく故郷の牧場に帰る日がやってきた。
あの悪夢から1年と数ヶ月。
カオリと山吉さんは、北海道浦河にある荻伏牧場の土をしっかり踏みしめた。

ちょうど山吉さんとカオリが栗東トレセンの馬房で日夜闘っていた1979年秋、日隈広吉オーナーがセリ市で日本最高額となる1億8500万円で、後のハギノカムイオーとなる当歳馬を競り落とす。
セリのすぐ後に日隈オーナーは山吉さんに「アンタにしてもらうために買ったで」と言ったそうだ。
1981年に伊藤修司厩舎に初入厩したハギノカムイオーの担当厩務員になったのは、約束通り、もちろん山吉さん。
カオリへの献身的な看病を知っていた日隈オーナー直々の指名だった。
厩務員がもらえる担当馬の進上金は、今も昔も賞金の5%(一部海外レース除く)。
現在は厩舎によって割合が違うが、進上金から20%〜100%徴収され、全員に後から均等に配分する「プール金制度」が、ほとんどの厩舎で導入されている。
だが昭和の時代は、丸々担当者がもらっていたし、厩舎の同僚といえどもライバルで、かなりドロドロした部分があった。
「あいつは調教師に好かれる為に、媚を売ったりスタンドプレーしたりしとる!」などのやっかみを、僕も何度聞いたことか。
でも、さすがに山吉さんがしたカオリの看病生活を「スタンドプレーや!」などと言う人はいなかったのではないか……。
だって厩舎の馬房の前で、1日中休みもなく長期間暮らすなんて、普通に考えて誰もできない事だからだ。
もちろん僕も絶対に無理だ。
今なら考えられない、賞金を1円も稼がないのが分かっている馬と、1年以上を共にした山吉さん。
そのカオリの為に、限りのあるトレセンの馬房を1年以上使わせた伊藤修司調教師。
そして、もちろん日隈オーナーの馬への愛情も忘れてはならない。
そんな人達のおかげで、予後不良から生還したハギノカオリだが、牧場に戻り繁殖牝馬として4頭を出産した。
そのうちの1頭、ハギノシンボル(もちろん山吉さん担当)は3勝し、内藤律子さんがJRA馬事文化賞を受賞した写真集「神威の星」の主人公となった。

そしてカオリは1990年、少しだけ長らえたその波乱に満ちた14年間の生涯を終えた。
次回はハギノカムイオーの奮闘と、息子さんの山吉一弘さんの話をお送りする。
つづく






