UMATO

2025年12月30日 (火)

 1982年1月31日、京都競馬場。
 サラリーマン時代の僕が生で観戦していた新馬戦で、ハギノカムイオーは快勝した。
 僕はアイドルを見るようにカムイオーに釘付けになっていて、パドックからレース、勝ち馬撮影まで、その勇姿を目に焼き付けていた。

1982年1月31日、京都競馬場でのデビュー戦のハギノカムイオーと山吉弘厩務員。(写真提供 山吉一弘)
新馬戦ゴール前のハギノカムイオー。(写真提供 山吉一弘)

 僕は当然気付いていなかったが、その新馬戦には、カムイオーと山吉弘厩務員に寄り添うように、息子の一弘君がいたらしい。

 後に天皇賞馬メジロブライトを担当し、僕も友人としてお付き合いさせてもらう事になる一弘君は、この時高校3年生。卒業後、北海道浦河の荻伏牧場で競馬学校受験前の修行としての就職が決まっていた。

 カムイオーは、2歳の夏に北海道デビューの予定だったが、軽い亀裂骨折が見つかり休養。
 年明けのクラシックレース直前デビューという遅いスタートとなったが、新馬、特別レース、スプリングステークス(皐月賞トライアル)と破竹の3連勝。
 そしてクラシックへと向かったが、皐月賞ではまさかの惨敗。次のNHK杯でもいい所がなく、ダービーを断念せざるを得なくなった。
 クラシックに間に合わせたい一心でデビューさせ、短期間で5戦。急仕上げの反動もあり、カムイオーは疲れのピークがきていたと思われる。

 復帰後は重賞を2連勝し、3冠最後の菊花賞へ向かい、1番人気に支持されたが、距離の壁にぶつかり大敗した。
 翌1983年は、重賞を連勝し挑んだ宝塚記念で悲願のG1制覇を成し遂げ、この年をもって引退し種牡馬となる。
 14戦8勝(重賞6勝)で、何と勝ち以外は全て着外(7着以下)という、気まぐれぶりだった。

 カオリの闘病からカムイオーデビューと、常に父のお手伝いをしていた息子の一弘君は、高校卒業後、1982年3月から1983年5月の間、荻伏牧場で修行生活をする。
 ちょうどカムイオーの現役時代のほとんどを牧場で過ごしていた事になり、レースもほとんどテレビ観戦だった。

 そして1984年7月生として無事競馬学校に合格。同期には年上の矢作芳人(調教師)や大橋勇樹(調教師)などがいた。
 競馬学校卒業後はJRAの浅見国一厩舎に入り、持ち乗り調教助手となる。

 僕は伊藤雄二厩舎時代の同僚が一弘君の同級生だった事などから知り合いになり、「山ちゃん」と呼ぶ仲になった。
 血統など競走馬の博士とも言うべき彼には、よく教えを請うた。

 キャリアを積んだ山ちゃんこと山吉一弘調教助手は、1996年、1頭の牡馬に巡り合う。
 その馬の名は、メジロブライト(牡・父 メジロライアン 母 レールデュタン)。

山吉一弘調教助手とメジロブライト

 デビュー戦は函館と決まったが、そのとき彼は北海道へ行くかどうか迷っていた。
 定年が間近だった父が突然の病に倒れ、家族は余命宣告を受けていたのだ。
 当人は知らされていなかったので、親族や調教師からは「一弘、おまえが北海道行かないとお父さんが怪しむので行け!」と言われていた。
 「何とか俺が北海道から帰るまで持ってくれ……」と祈りながら北海道に渡ったが、ブライトのデビュー戦の2日前、訃報が届いた。
 6頭立てで断トツの最下位人気だったブライトが新馬戦を快勝した日、彼は父の葬儀の中にいた。
 葬儀には日隈広吉オーナーも参列され、涙ながらにお骨拾いまで同列されたそうだ。

ハギノカムイオーの新馬戦勝利の後、厩舎で握手をする山吉弘厩務員と日隈広吉オーナー。(写真提供 山吉一弘)

 山ちゃんは言う。「親父は決して仕事人間ではなく、ただただ馬が大好きな人でした。」

 山吉弘厩務員 1996年8月逝去 享年65歳。

 その次の年、山ちゃん(山吉一弘助手)は浅見国一調教師の定年により厩舎を移ることになったが、実はブライトと一緒に武邦彦厩舎への転厩を打診されていた。
 だが浅見国一師に「おまえは秀一(息子さん)のとこへ行け!」と言われ、「ブライトと一緒じゃないと行きません」と答えたため、メジロの馬を入れる予定のなかった浅見秀一厩舎に頼み込み、馬と一緒に浅見秀一厩舎へ行く事になった。

 メジロブライトは、山ちゃんの期待に応え、素晴らしい成績を積み重ねていく。

1996年ラジオたんぱ杯3歳(現2歳)ステークス優勝時のメジロブライトと山吉一弘助手。

 クラシックこそ皐月賞4着、ダービー3着、菊花賞3着だったが、その後重賞3連勝し、1998年春の天皇賞へ向かった。

 そしてブライトは見事、天皇賞を快勝。G1初制覇を成し遂げる。

1998年天皇賞優勝直後のメジロブライトと山吉一弘助手。
同じく1998年天皇賞優勝後、写真撮影へ向かうメジロブライトと山吉一弘助手。そして喜ぶ、浅見国一元調教師とメジロの北野ミヤ会長。

 山ちゃんは真っ先に、
 「草葉の陰でオヤジが応援してくれてたから勝てたんや……生きてたらどれだけ喜んだやろな」
 と思った。

 寡黙な父だったが、「言葉遣いと挨拶だけはちゃんとやれ!」と常々言っていたそうだ。
 その教育からか、僕たちグループ内でも山ちゃんの人望の厚さは別格で、誰からも好かれる「人格者」だと言ってもいいだろう。

2001年8月、札幌大倉山ジャンプ競技場にて。左側が山ちゃんで、真ん中はこのUMATOでのKEIBA愛でお馴染みの鈴木正氏、右が僕。




 ブライトはその後も重賞路線で活躍し、全成績は26戦8勝(重賞7勝)。
 重賞の2着は、何と7回もあった。

1999年天皇賞(春)2着時のメジロブライトと山吉一弘助手。
1999年京都大賞典2着時のメジロブライトと山吉一弘助手。

 山ちゃんの逸話で有名な話がある。
 山ちゃんが働いていた荻伏牧場出身の厩舎関係者は多く、ウイニングチケット担当の島助手(現 友道厩舎)や、スーパーホーネット担当の久保助手(現 矢作厩舎)などがいる。
 また、すでに定年された名物厩務員の金沢さんという人もいた。

 僕も仲が良かった金沢さんは、めちゃくちゃ面白く、どんな人の相談にも乗り、お金を貸したりもする、典型的な「いい人」だった。

 かなり長い期間、荻伏牧場を卒業して栗東トレセンに向かう人達に、場長らからある訓示があった。
 前記の島助手や久保助手も、ありがたく受け取ったその言葉とは……

 「馬の事聞くなら山吉に、金借りるなら金沢に」

田中一征 (Kazuyuki Tanaka)

1960年大阪府泉大津市生まれ
JRA栗東トレーニングセンターで、1983〜2007伊藤雄二厩舎、2007〜2025梅田智之厩舎に厩務員として在籍し、2025年7月に定年退職。

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