ちょうどこのコラムを書いている時、年始めの名物レース「金杯」が東西で行われていた。
僕がサラリーマンだった頃、競馬好きの友人と京都競馬場の金杯に行くのが毎年のルーティンだったが、今でも競馬好きの人には年始めの運試しみたいな位置付けのレースだと思う。
そんな「金杯」の中でも強烈に思い出すのは、もちろん僕の担当馬のワコーチカコが勝った1995年の金杯だ。
その話は、馬シリーズの次回に予定しているワコーチカコ編でお話させてもらうとして、もう一つ印象に残っている金杯がある。
それはダイユウサクが勝った1991年の金杯だ。この時のダイユウサクは2連勝で迎えた1番人気での快勝だったが、この年の有馬記念は14番人気で勝ち、1年の最初と最後の重賞を勝つという離れ業をやってのけた。
ダイユウサク(牡、父 ノノアルコ 母 クニノキヨコ 内藤繁春厩舎1988〜1992在籍)を担当していたのは、平田修調教師(当時 調教助手)。

平田師は、僕の1年後に競馬学校を卒業したが、同じ1960年生まれの同級生だ。
彼の存在は知っていたが、1985年前後に発足した1960年〜61年生まれの「同級生会」で初めて話をしたと思う。
その同級生会は平田師以外にも、前回の人シリーズで書いた矢作芳人師を始め、藤岡健一師、岡田稲男師など、後にG1調教師となる面々が顔を揃え、その他にも各厩舎の顔とも言える専業調教助手(攻め専)がずらり並ぶ豪華な集団で、定年者が増えた現在もまだ続いている。
この同級生会の事はまたいつかこのコラムで書きたいと思っている。
僕が彼と一番よく遊んだのは20代後半から30代半ば。お互いまだ独身だった時代だ。
有休など無いに等しい時代、僕らの遊びは厩舎の仕事が終わってからの夕方から夜が中心。
平田師がいた内藤繁春厩舎は、夏場は小倉競馬メインだったので北海道で遊んだ記憶はほとんどないが、近場や京都などで飲み歩くのが僕らの日課だった。

その時の彼は僕らのリーダー的存在で、内藤厩舎の後輩など数人従えたその集りを「ブラッキー軍団」と呼んでいた。名前の由来は、彼が1年中色黒だったからだ。
パシリメンバーには「矢作ライン(矢作芳人調教師編参照)」でも行動隊長だったナベ氏こと渡邊勉助手(現 石坂公一厩舎厩務員)や、佐藤淳調教助手(現 荒川義之厩舎)などがいて、僕は役職的には相談役?顧問?みたいな立ち位置だった。
後輩達が飲み会や合コンなどをセッティングするのだが、軍団長の一言でその日のスケジュールがコロコロ変わるのは日常茶飯事だった。だがどんな無理難題な指令を受けても、軍団員は嫌がらず喜んでやっていた。
それは彼の人望と面倒見の良さがあったからこそで、その性格は調教師になってからも最大限に発揮されることになる。
ちょうどそんなブラッキー軍団が名を馳せていた頃、平田師が出会ったのがダイユウサクだ。
この馬は彼の人生を大きく変えたと言っても過言ではない。
デビュー戦は現3歳の秋という遅さで、もう未勝利がないので1勝クラスのダート戦。何と13秒遅れのタイムオーバーでのドンケツ。
格上挑戦とはいえデビュー戦でタイムオーバーをくらって、後にG1を勝った馬は他にいないのではないか?知らんけど。
平田師はいつも「ユウサク」と呼び、猫可愛がりレベルの溺愛ぶりは有名だった。僕も何度かファンの人を連れて見学に行った事があるが、相思相愛ともいえる関係性だったと思う。
そんなダイユウサクは前記の金杯を3連勝目で制したが、前年度の7月あたりから金杯まで8戦というかなり過酷な戦歴だった。
その当時の内藤繁春厩舎は毎年出走回数が1位。上位クラスの馬でも容赦なくレースを使う事で有名で、平田師を含む厩舎従業員はよく調教師に「馬を休ませてやってほしい」と嘆願しているという話をよく聞いた。
その願いが届いたかどうかは知らないが、ダイユウサクは金杯を勝ち3月に産経大阪杯2着に来た後、5ヶ月の休養に入る。

しかし9月に再起してからは、何と有馬記念の前まで3ヶ月で5走。しかも1400mから2400mを使うという荒っぽい使い方で、1600mのオープン特別を勝っての有馬記念挑戦となった。
そんな使われ方をしていたダイユウサクだったので、前走1着とはいえ有馬記念での人気は15頭立ての14番人気。
平田師もその使われ方には常に疑問を持っていたので、近しい仲間には「あかんあかん、出るだけや!」と言っていた。
そして平田師とダイユウサクは、あの有名な実況のフレーズが飛び出す1991年の有馬記念へと向かう。
つづく






