JRAの厩舎に入る為には、僕らの年の1982年から現在にいたるまで競馬学校卒業が必須だ。
その競馬学校が開校してからしばらくの間は、試験を受けるのに牧場経験や乗馬経験もいらなくて、馬を一度も触ったこともない人も入学できた。
まあ僕も乗馬センターに2回行っただけだったが…。
そんなズブの素人だった僕は、たった3ヵ月の競馬学校生活を経て1983年1月、栗東トレセンの伊藤雄二厩舎に配属された。
僕が入る少し前から栗東トレセンで持ち乗り調教助手制度がスタートして、各厩舎の人員構成といえば、20頭の厩舎なら厩務員8人前後、持ち乗り調教助手1〜2人、専業調教助手(攻め専)が2人といった感じだった。

今もたいして変わらないと思うが、メンバーは20代から60代まで幅広く、いわゆる調教助手と厩務員というカテゴリーのみで役職みたいなものはなかったが、一応攻め専のトップが調教師に次ぐNo.2という厩舎が多かったと思う。
そして当時は僕たちみたいな競馬社会にまったく縁もゆかりも無い人は少数で、各競馬場からトレセンに移ってきたベテラン、その子供たち、北海道や九州の馬産地出身の人などが多数を占めていた。

いわゆる◯◯ファミリーとでも言おうか、同じ苗字の血が繋がった人がたくさんいて、調教師から騎手、厩務員にいたるまで幅広くトレセン内で働いていた。
関西の調教師や騎手の有名どころと言えば、多くの弟子を育てた武田文吾調教師からの流れの武邦彦、武豊らの武ファミリー、中尾ファミリー、大久保ファミリーなどがある。
その他厩舎従業員にもそういった人の血統コミュニティーがあり、そういった一族が多数存在していた。
昭和の栗東トレセンは典型的な村社会で、サラリーマン出身で競馬社会に友人どころか知り合いすらいなかった僕は、独特なこの馬社会のコミュニティーにしばらく馴染めず、最初は競馬学校の同期とつるむことが多かった。
でもそれではダメだと思い、元高校球児の肩書でトレセン野球部に入部して精力的に活動したり、同じ厩舎の友人らと釣り同好会を作ってブラックバス釣りや海釣りなどをしたり、トレセン内にいた同級生や先輩おっちゃん達との飲み会などにも積極的に参加するようにした。
そして野球部からの経緯で、厩務員労働組合の青年部という団体にも入部したのだが、そこで1人の人物に出会う。
「健ちゃん」こと、藤岡健一調教師(当時 調教助手)だ。

健ちゃん個人の話はこのシリーズの最後にゆっくりお話させてもらうとして…。
彼とは組合青年部の行事(旅行、スキーなど)で遊んだりし、一時期同じ厩舎の同僚としても一緒に働き、そして藤岡家ぐるみで色々遊びにも同行させてもらった。僕が結婚してからも嫁さん共々本当にお世話になった。
僕がこの栗東トレセン競馬村で楽しくやっていけるようになった要因のひとつに、間違いなく健ちゃんの存在がある。

その健ちゃんを頂点とする、藤岡ファミリーが今回からのお話。
ファミリーと言っても、先に述べたトレセン内に一族がいっぱいる一大勢力のファミリーとは違い「家族」という意味でのファミリーだ。
この話を書こうと思ったのは、つい先日の2026年2月28日、健ちゃんの長男である藤岡佑介騎手が調教師試験に合格し、騎手を引退したからだ。
2年前に弟の康太騎手がレース中の痛ましい事故で帰らぬ人となった。その出来事がきっかけとなり、佑介は調教師転身を決めたようだ。
康太の出来事は家族はもちろん、今だに僕ら周りの誰もが信じられない気持ちだ。心の整理など何年経とうがつくはずもなく、康太の話はできるだけ避けてきた。
しかし佑介の調教師挑戦で新たなステージを迎えるこの機会に、人生残り少なくなった僕が見た藤岡家の物語のほんの少しの部分だけでも綴っておきたいと、今回思い切って書くことにした。
佑介、康太が小学生〜中学生の間、他の家族らとディズニーリゾートや温泉旅行、琵琶湖でのキャンプなど、健ちゃんに僕ら夫妻も一緒に連れて行ってもらった。
その時の楽しかった思い出は数え切れないくらいたくさんある。
次回からは、そんな昔話を交えながら佑介〜康太〜健ちゃんと僕との逸話を3人別々にさせていただくが、あえて今回のシリーズのタイトルは「藤岡ファミリー」にさせてもらう。







