高校3年生時の秋、進路を巡って担任の先生からは『どうするんや?』と聞かれるも「プロカメラマンになります!」と答え『コネはあるんか?』「無いですけど作ります」『お前ならなんとかなりそうやな』というやり取りをしたが、昔から夢を叶えるための根拠のない自信は大いにあったのだ。
工芸高校・写真工芸科に通っていたので学校帰りに現像所に寄ったりする用事もあり、その日も現像所に立ち寄った。その現像所には高校の先輩卒業生が就職しており、勝手知ったる場所だったが、その日はたまたま忙しく少しの時間待たされることになった。
当時の現像所にはアシスタント募集などの求人が張られており、こういうルートからカメラマンになる道もあるんだよな?と思って見ていると、机の上に置いてあった写真展の案内ハガキに目が留まった。それは体に電流が走った優駿誌で見開き写真を撮られた「川本武司」さんのハガキで、競馬とは関係ない住まれている奈良の風景の写真展だった。
案内ハガキを頼りに早速見に行くと何気ない風景が絵になっていて「プロって凄いな」と感じ、この人の下で写真を撮りたいと強く思った。
写真展の案内ハガキに住所が書いてあったので直球で競馬カメラマンになりたい!と手紙を書いたら、数日後に電話を頂き、一度事務所に来なさいと言って貰えた。
「写真学科に通う競馬好きの高校3年生で将来は競馬カメラマンになりたい!」という話をすると、川本さんはJRA職員でありながら唯一のカメラマンで、当時の関西広報カメラマン(現在のJRAフォトサービス)を取り仕切る人物だった。「卒業したら関西広報カメラマンとしてキャリアをスタートさせたらいいんじゃない?」と言われ、思っている以上にとんとん拍子で話が進んで行った。(本当に自分でコネ作っちゃった)
高校を卒業したその春(1987年 18歳)からいきなりプロ(撮影することでギャランティーが発生してお金を稼ぐ)として写真を撮り始める事になり、プロカメラマンになるという一つの夢が叶った。初めてお会いした時から師匠として慕い、プロとしてのキャリアを始めたと同時に師匠の勧めで人脈づくりの為に大学(大阪芸術大学・写真学科)にも通い始めた。
そして平日は大学生、土曜日は関西広報カメラマン、日曜日は既存の方が居て仕事には入れていなかったが自分の腕を磨く為、自前のフイルムでフリーカメラマンとして競馬の写真を撮っていた。
関西広報カメラマンとしてデビューし、最初に撮影したGⅠレースが1987年のマックスビューティーが勝った第47回桜花賞であった。ワタシは4コーナーのスタンドから桜の木を入れての撮影だったが、その写真が優駿誌に掲載された喜びを今でも覚えている。
しばらくして優駿誌に関西レギュラーカメラマンとして自分の名前が載ることになり、憧れの雑誌に撮影した写真と名前が載るという二つ目の夢が叶った。
そうこうしているうちにオグリキャップと武豊人気で第二次競馬ブームが起こり、フリーカメラマンとしての仕事量が増えたので大学卒業を機に関西広報カメラマンを卒業して現在に至っている。
次週へ続く