今週は新潟記念。ここ3年で2頭(21年マイネルファンロン=12番人気、22年カラテ=10番人気)の2桁人気馬が勝っている、大荒れ必至のハンデ戦。筆者は何と、16番人気馬が勝つのを目の当たりにしたことがある。08年、勝ったのはアルコセニョーラ。鞍上は今春、JRA競馬学校教官へと転身した武士沢友治騎手だった。
18頭立ての16番人気とは思えぬ鮮やかな勝ちっぷりだった。道中は14番手付近。いつもの位置だった。様子がいつもと違ったのは新潟外回りの直線を向いた時の手応え。周囲の馬たちにはムチが入っているのに、武士沢騎手だけ涼しい顔で、アルコセニョーラと一体となっていた。
それでは…という風情で残り400mで追い出す。カメラが有力他馬の動きを追った後、アルコセニョーラに戻ってきた時には、もう先頭に立っていた。外ラチ近くを力強く伸びる。武士沢騎手が左ムチを入れるたびに「分かったわよ!」とばかりに尻尾を振るのが何ともかわいらしい。2馬身差の快勝。武士沢騎手には珍しく、右手で一瞬だけガッツポーズをつくった。2着馬は翌年の天皇賞・春を勝つマイネルキッツだった。
アルコセニョーラといえば武士沢騎手とのコンビが印象深い人も多いだろうが、実はこの新潟記念が初コンビだった。きっかけは“代打”だった。当初は札幌のキーンランドC・ダイワマックワンに騎乗する予定だったが、同馬が除外確実となり、騎乗場を新潟へと切り替え、アルコセニョーラ陣営の依頼を受けた。「タメて脚を使った方がいいと思っていた。イメージ通りの手応えがあった。あとは自分が早く動きすぎないことと思っていた」(武士沢騎手)。直近の5戦中4戦が2桁着順と成績は思わしくなかったが、初騎乗で先入観を持たなかったことがいい方に出た。
記者に囲まれると「トウショウナイトが亡くなったのが、ちょうど月の末日だったからね」と語った。06年アルゼンチン共和国杯で武士沢騎手に重賞初Vをプレゼントしてくれたパートナー。それが4月30日、調教中の故障で安楽死処分となっていた。「その後も騎乗停止になったりしたんだけど…。(悪いことの後にいいことがやってきて)競馬は分からないね」と話した。
武士沢騎手はGⅠを勝つことはできなかったが、周囲の騎手から、その手腕を高く評価されていた。人気薄の馬に乗ることが多く、そういう馬は脚元に不安を抱えていたり、精神面にモロさ、弱さが同居しているケースが多い。そういう馬に調教からまたがり、馬と会話しながら、レースでいかに上位の着順をつかむかを常に模索していた。
「武士沢さんが乗った馬に次走で乗ったら、びっくりした。よくこの馬に涼しい顔して乗ってたな、って」と、当時の若手騎手が話していた。だから、競馬学校教官に転身すると聞いた時は、その手があったか、と大いに納得した。JRA関係者も武士沢騎手の“難のある馬を頑張らせる技術”に気付いていたのだろう。
恐らく“育てる”ことは武士沢さんの天職。優秀な新人ホースマンを次々と送り出すに違いない。