今週の中山メインはアメリカジョッキークラブカップ。1月下旬のGⅡとして定着し、過去の優勝馬には名馬が何頭も名を連ねるが、筆者の心に残るのは90年の優勝馬サクラホクトオーだ。
とにかくキャラが立っていた。当時、非常に評価の高かったトウショウボーイ産駒。馬体はすらりとして垢抜けており、1歳上の兄サクラチヨノオー(父マルゼンスキー)は89年ダービー馬。新馬戦から3連勝で朝日杯3歳S(現朝日杯FS)まで突き抜けた時には、翌年の3冠は決まったと思った。

だが、サクラホクトオーは栄光の階段から転げ落ちた。
単勝1.4倍で迎えた弥生賞。ところが不良馬場に全く脚が動かず、12着に完敗した。
続く皐月賞は、またも不良馬場。ところが、2歳時(当時の表記では3歳)の3連勝を見ている自分を含めた“ホクトオー信者”は今度こそ大丈夫と信じて1番人気に祭り上げてしまう。しかし…。あろうことかサクラホクトオーは19着に敗れるのだ。
ただの19着ではない。20頭立てで、1頭が競走中止。要は完走した馬の中で“ビリ”である。
ダービーは待望の良馬場。だが、多くのファンはダービー馬の弟を見放し、5番人気。勝負勘はすっかり失われており、24頭立ての9着。何とも評価しにくい着順で大一番を終えた。
「ホクトオーは早熟だよな」「もう走る気は残ってねえべ」。ウインズ後楽園で耳に赤鉛筆を差したオジサンの会話が今も耳に残る。
だが、サクラホクトオーは終わっていなかった。セントライト記念では小島太騎手の好判断もあり見事な差し切り。「やっぱり積んでいるエンジンが違ったな」と境勝太郎調教師は感嘆した。
続く菊花賞も見せ場たっぷりの5着。直線でただ1頭、外へと派手にヨレていき、それでも猛烈に追い込んだ。その日、筆者の大学は学園祭。筆者はラジオで聴いていたが、実況は2着あたりまで突っ込んできたかのような興奮ぶりだった。
続く有馬記念で上位に好走すれば、もう本物。サクラホクトオーはイナリワン、スーパークリークに次ぐ3着。あのオグリキャップ(5着)に先着した。
そして迎えたのが90年のアメリカジョッキークラブカップだった。あの、悪夢の皐月賞以来となる1番人気。良馬場。生まれ変わったサクラホクトオーは道中でポジションを上げて4角では2番手。先に仕掛けたカシマウイングを苦もなくかわし、追いすがるランニングフリー、リアルバースデーを手応えを残したまま振り切ってみせた。完勝だ。
「予想以上に強い競馬。筋肉の付き方も非常に良く、まだまだ強くなるよ。春の目標は天皇賞。オグリキャップ、スーパークリーク、イナリワンと強い馬は多いが、ホクトオーだって互角の勝負はできるよ」
主戦・小島太騎手はそう語ったが、これがサクラホクトオー、最後の輝きとなった。続く大阪杯(当時GⅡ)では全く見せ場なく7着。大目標の天皇賞・春は勝ったスーパークリークから負けも負けたり3秒9差の14着。そこから1年の長期休養に入り、9着、15着。矢吹丈のように燃え尽きてサクラホクトオーはターフを去った。
サクラホクトオーの歩んだ道のりは、人間が歩んでも全くおかしくない道のりだ。学生時代はイケイケだったが、社会人となって壁に当たる。そこで試行錯誤、努力も重ねて必死に乗り越える…。ベタではあるが、サクラホクトオーの歩んだ道にはドラマがあった。
今年最初の重賞、京都金杯を制したのは6番人気のサクラトゥジュールだった。同馬の祖母セダンフォーエバーはサクラホクトオーの1歳下の妹。もし、サクラホクトオーが人間なら目に入れても痛くないレベルの子孫(言い過ぎか?)だろう。
サクラトゥジュールはもう8歳だが、ピンク色の勝負服が依然、健在であることにうれしくなった。