キャリアの最後は99年凱旋門賞2着まで飛翔したエルコンドルパサー。そんな歴史的名馬の初重賞制覇が98年共同通信杯4歳S(当時)である。
オールドファンなら先刻承知だろう。この日は未明からの雪で芝はダート変更となり、共同通信杯4歳Sはグレード格が取り消された。障害競走(5R)も中止。しらけムードというか、「こんな状況でも競馬はやるんだね」という空気が競馬場全体に漂う中、それを一変させたのが、エルコンドルパサーのド派手な勝ちっぷりだった。

9頭立て。4番手の外で流れに乗った。直線、残り250mで先頭に立つ。ハイパーナカヤマが食い下がるが残り100mを切ったところで振り切った。2馬身差の完勝。ラスト3Fのラップは12秒5-11秒8-11秒5とゴールに向かって加速。冷気も吹き飛ぶ圧巻のレースぶりだった。
今、思えば、のちの凱旋門賞2着馬にハイパーナカヤマもよくぞ食い下がったという感じだが、岡部幸雄騎手は首を横に振って完敗を認めた。「向こうの方が全然、上だよ」
「芝でどんな走りをするか見てみたかったのですが…(勝っておいてそれを言うのは)ぜいたくですよね。完璧なレースぶりでした」。開業9年目。二ノ宮敬宇(よしたか)師にとって、これが待望の初重賞制覇だった。
筆者の脳裏に焼き付くのは、フランス・シャンティイに長期滞在するエルコンドルパサーのため、何度も日本とフランスを往復し、疲れも見せずに抜かりなくいろいろな物事を準備し、冷静にスタッフに指示を出す二ノ宮師のりりしい姿だ。だが、エルコンドルパサーが初めての重賞勝ち馬だったとは…。スマートに全てをこなしているように見えたが、その陰では焦り、苦労も多かったはずだ。今となれば容易に想像がつく。
渡邊隆オーナーの慧眼にも今になって改めて驚く。エルコンドルパサーが血統的に計算に計算を重ねた上で生産された馬であることをインタビューで何度も強調されていたが、その期待馬を重賞未勝利の若手調教師に預託していたのだ。それだけ二ノ宮師の将来性にホレ込んでいたということだろう。人を見る目の確かさがうかがえる。
手綱を取った的場均騎手(現調教師)がスポニチに興味深いコメントを残していた。「本音を言えば芝でやりたかった。“血統的にはダート向き”といわれているが、私自身の感触では、むしろ芝の方がいいからだ」。世界へと飛翔する頃には、その鞍上にはいなかったが、しっかりと芝での活躍を予言していた。
2着はハイパーナカヤマだったが、和泉信一オーナーはその後、ナカヤマフェスタで二ノ宮師とコンビを組み、エルコンドルパサーと同じく凱旋門賞2着(10年)という境地まで到達する。このあたりの人の縁も面白い。
そして、震え上がるような寒さの中、東京競馬場へと足を運んだ熱心な5万5008人にも、ビッグなボーナスがあった。共同通信杯4歳Sの後、最終12Rを制したのは5歳牝馬のタニノシスター。もうお分かりだろうか。あのウオッカの母である。あの日に府中にいた人は「オレ、ウオッカの母ちゃんが勝つところを見たんだよな」と自慢していいということだ。
「今思えば、あの日は○○だった」という楽しみ方ができるのは競馬の大きな魅力だ。エルコンドルパサーがダートで最後の白星を挙げた98年2月15日は、その面白さがギュッと凝縮したような一日だった。