今週の日曜中京メインは愛知杯。過去の優勝馬リストを眺めていたら、何か違和感が…。そうだった。日程、番組の大幅な改編により、これまでの「京都牝馬S」が2回中京に収まったことで愛知杯となったのだった。
ということで筆者が見ていたのは京都牝馬Sの優勝馬リストだったわけだが、目がくぎ付けになる馬名があった。98年優勝馬ビワハイジである。
読者のみなさんにとっては「名馬ブエナビスタの母」「いやいや、アドマイヤジャパン、アドマイヤオーラ、ジョワドヴィーヴルの母でもある屈指の名牝」というイメージだろう。

筆者はそこにつらい記憶が1つ加わる。若い頃、ライバル紙にスクープを抜かれた苦い思い出である。
96年春の栗東トレセン。当時は関西馬が非常に強く、関東の記者も頻繁に栗東へと足を運び、追い切り原稿などを書いた。筆者は同年1月にレース部へと異動したばかり。他紙の記者の動きについていくので精いっぱいだった。
天皇賞・春をサクラローレルが制した翌週だった。ある朝、ライバル紙にスクープが掲載される。「桜花賞15着のビワハイジ、ダービー挑戦!」
今、思い出してもゾッとする。他紙に掲載されたスクープを見た瞬間というのは気分がグッと落ち込むのだ。筆者はまだ駆け出しだったから、デスクが血相を変えて怒るようなことはないだろうが、「ウチも何とかならなかったか?」くらいのことは言うだろう。何より、スポニチ読者にこんないいネタを1日遅れでお伝えしなければならないことがつらい。
慌ててビワハイジを管理する浜田光正調教師(引退)のもとに向かった。「オーナーが希望している。ダービーに向かうことを検討中です」。別に隠していたわけではなさそうだ。ビワハイジがオークスに向かうものと決めつけ、浜田師に確認しなかった、こちらの落ち度である。
スクープをものにしたライバル紙の記者に恥を忍んで聞いた。「どうして、この情報を入手できたのですか?」。数日前、仲のいい厩務員と食事に行ったところ、別の厩舎関係者が食事をしていた。その関係者の中にビワハイジの厩務員と近い方がいて、「ビワハイジはダービーに行くらしいぞ」と教えてくれたのだという。
ガツンと殴られたような思いだった。これが“情報力”の差なのだ。このままでは同じことが何度でも起きる。当時はまだ、栗東に仲のいい関係者のいなかった筆者だが、まずは、一緒に食事に行けるような知り合いをつくろう。そして、その方々と常に食事をしようと決めた。のちにテイエムオペラオーやディープインパクトなどの番記者となれたのは、この“ビワハイジの失敗”で気持ちにカツが入ったから、かもしれない。
ビワハイジは記事の通り、ダービーに出走し、13着に敗れた。レース後、左前脚の骨折が見つかり、1年以上の休養を余儀なくされる。復帰4戦目の98年京都牝馬Sを逃げ切ったが、これが最後の輝き。脚部不安に陥り、引退となった。
その後の繁殖牝馬としての活躍はみなさん、ご存じの通りである。筆者はこう思っている。ビワハイジの子には、母のダービー挑戦と大敗の記憶が伝わっているのではないか。だから、勝負根性に秀でた子が次々と生まれたのではないか。
あの時、ビワハイジがオークスに向かっていたら、故障もなく現役生活での勝ち星を増やしていたかもしれない。だが“伝説的な活躍をするブエナビスタ”は生まれていなかった気もする。まあ、全ては妄想でしかないが。
ビワハイジは22年2月25日、天寿を全うし、老衰により29歳で世を去った。筆者の記者人生を変えてくれた1頭だった。