今回は筆者が若かりし頃、競馬に夢中になったきっかけをくれた馬を紹介したい。89年安田記念を制したバンブーメモリーである。
18頭立ての10番人気。のちに89年マイルチャンピオンシップでオグリキャップとハナ差の激闘(2着)を演じたり、90年スプリンターズSを快勝したことを知る現代の皆さんからすれば「人気なさすぎ!」という感覚だろう。

だが、これでも当時は「意外に人気している」と思えたオッズだった。
若いファンには信じられないだろうが、当時の競馬は、関東のファンは関東の競馬、関西のファンは関西の競馬に“集中する”のがしきたりだった。というか、そうせざるを得ない状況だった。関東のウインズで関西の競馬の馬券が売っていなかった(重賞は買えた)のだ。
当時のスポーツ各紙を見直すと、東京競馬の出馬表、予想は現在と同様、なかなかの充実ぶりなのだが、同時開催の京都に関する情報が1つもない。
バンブーメモリーが勝った安田記念の前日。京都では2Rの未勝利戦をのちに菊花賞馬となるバンブービギンが5馬身差つけて圧勝。8Rの400万円下(現1勝クラス)は、のちの有馬記念馬ダイユウサクが9番人気で勝っている。実はもの凄い日だったのだが、成績もなければ記事もない。
このように関東のファンは関西馬に、関西のファンは関東馬に全く疎かった(重賞級の馬を除いて)のである。
バンブーメモリーは安田記念の1カ月前に行われた準オープンの道頓堀Sを勝ってオープンに昇級したばかり。前走・シルクロードS(当時オープン特別)は脚を余して3着に敗れ、連闘で安田記念に臨んでいた。
だが、道頓堀S、シルクロードSの内容を詳報した関東の新聞などあるはずもない。安田記念登録馬の中にバンブーメモリーの名があっても「本当に連闘で東京に来るのだろうか」と疑問視して、週中は“出否未定”扱いにしていた。
前置きが長くなったが、このような状況にありながらバンブーメモリーが10番人気だったのは「ほう!」という感じだった。
レースは、びっくりするほど強かった。ケープポイントが逃げてハイペース。バンブーメモリーは1番人気のホクトヘリオスとともに後方で脚をためた。
直線を向く。前に馬の壁ができて外に動かざるを得なくなったバンブーメモリー。だが、スペースを確保してからの伸びは凄まじかった。次々と前をかわし、先に抜け出していたダイゴウシュールを捉えて1着ゴール。岡部幸雄騎手は馬の首をポンと叩いてねぎらった。
「返し馬で背中の柔らかい、いい馬だと思ったが、4コーナーでは半信半疑だったよ。まさかこんな強い勝ち方をするとは。宝くじにでも当たったようなものだよ」
岡部騎手の言葉が実に味わい深い。前週のシルクロードSを不完全燃焼で敗れ、疲れがなさそうだと感じた武邦彦調教師は、鞍上も決まっていない状態で急きょの連闘を決めた(当時は前週の登録でOKだった)。関東の第一人者・岡部騎手に何と安田記念での騎乗馬がおらず、連絡を取ると乗ってくれるという。岡部騎手にとっては、まさに“的中宝くじが降ってきた”のだ。
その武邦彦師のお立ち台コメントも味わいがあった。「連闘だけど、栗東から中京に行くのも当日輸送だからね。もう少し足を伸ばして東京まで行った、と思えばいい。馬も苦痛ではなかったはず」。あの、ひょうひょうとした雰囲気でこんなセリフを口にするのだからたまらない。騎手時代は「ターフの魔術師」と呼ばれたが、調教師としてもマジックを使った一戦だった。
実は筆者、この安田記念前、周囲の友人に「バンブーメモリーが勝つんじゃない?」と吹聴して回っていた。今回は紙幅も尽きたので、そのあたりの話は次回に書きたい。






