01年関屋記念は新潟競馬場の歴史に深く刻まれる一戦となった。
左回りへの変更、日本初の直線1000メートルコースの新設。何もかも新しくなった新生・新潟競馬場での初の重賞レース。前哨戦の朱鷺Sを制していたマグナーテンは岡部幸雄騎手を背に4番人気に推された。

2番手でスムーズに流れに乗る。岡部騎手は「素晴らしいリズムだと感じていた。よくぞ、ここまで成長したものだと思う」。去勢前には見せなかった人馬一体ぶりに名手は感心していた。
外回りコース、650メートルを超える長い直線。マグナーテンには追い出しを待つ余裕があった。残り1ハロンで満を持してムチを抜く。逃げるクリスザブレイヴを楽にかわした。あっという間に突き放して2馬身半差の完勝。初重賞の壁をあっさりとクリアした。
ここまでの、山あり谷ありの道のりを誰よりも知る岡部騎手。マグナーテンを手放しで称えた。「レースを使うたびに走りがうまくなっている。若い頃はすぐカーッとしていたが、今は本当に冷静。ここまで根気よく面倒を見てきたが、そのかいはあったね」
陣営も妙手を打っていた。朱鷺Sの後、美浦へ戻るのではなく、北海道へと移動したマグナーテン。札幌、函館と涼しい環境下で調教し、新潟へと乗り込んで勝利を手にした。
藤沢和雄調教師は札幌競馬場でモニター越しに勝利を確認した。「気持ちが走りに結びついて、いい馬になった」。苦労を重ねた良血馬が、ついに重賞を手にしようかという時に、いつも通り札幌にいるのが藤沢さんらしい。その札幌でもメインはタイキトレジャーで快勝。さすが抜かりはない。
翌02年の関屋記念もマグナーテンの独り舞台だった。逃げるミデオンビットを見ながらの2番手。勝負どころ。後方から来る馬に合わせて追い出そうとした岡部騎手だったが、待っても待っても後続など来ない。結局、激しいアクションを起こすことなくミデオンビットをかわし、楽にゴールを駆け抜けた。
この年は新潟に姿を見せた藤沢和雄師。「来年、また岡部騎手を乗せて3連覇を狙おうか」と冗談めかし、報道陣を笑わせた後、表情が引き締まった。
これで新装新潟で4戦4勝。新潟でパーフェクトですよ、と持ち上げた報道陣に「新潟だけしか走らないのでは困るからね」と、少し語気を強めた。
「この強いレース内容で秋が楽しみになった。距離はマイルにこだわっているわけではない。1800メートルや2000メートルでも競馬をさせてみたい」。指揮官の決意に満ちた言葉に呼応するように、マグナーテンはさらなる奮闘を見せた。
秋初戦、この年は中山で行われた毎日王冠を逃げ切り。母も走ったジャパンCにも出走して僚馬シンボリクリスエスに続く3着(優勝ファルブラヴ)。翌年1月にはアメリカジョッキークラブCを逃げ切った。指揮官の予想も超えた、2200メートル戦での快勝劇だった。
04年ジャパンC(14着)を最後に引退したマグナーテンは、札幌市清田区のモモセライディングファームで功労展示馬として余生を送った。筆者も当時に訪ねたことがあり、マグナーテン以外にも藤沢和雄厩舎出身の馬が数頭いたように記憶する。
これまた余談。地図で見ると分かるが、同ファームは住宅地の中にある。開設当初は周囲に家も少なかったのだろうが、札幌市の人口増加で、中心部から離れたこの地にもどんどん周囲に人がやってきたのだろう。本当に札幌市内?という雰囲気を残すファーム。いつまでも現状をとどめてほしいと願うばかりだ。
幸せな余生を送ったマグナーテンは24年9月16日に天に召された。28歳。長生きした部類だろう。
マグナーテンが02年7月のNSTオープンでマークした新潟芝1400メートルの勝ち時計「1分19秒0」は現在も堂々たるレコードタイム。去勢したため子孫は残せなかったが、胸を張れる記録は残した。偉大な馬だったと思う。