親類が府中にお引っ越し。新居を訪ねがてら東京競馬場周辺を散策してきた。当コラムでは消滅した競馬場の跡地を訪ね歩いているが、東京競馬場にも“昔の名残”がないか、探してみた。
まずは府中本町駅から南へ歩いて5分。こちらは「東京競馬場前駅」の跡だ。

1973年(昭48)に廃止となったこの駅。中央線の国分寺から分かれ、北府中を経て当駅へと至る、通称下河原線の終点だった。武蔵野線の開業により、競馬場への輸送は府中本町駅に譲ることとなり、廃止となった。
跡地に駅の雰囲気は全く残っていないが、大きさ的には資料にある「島式ホーム1面2線」そのものだ。北府中方面への線路跡は緑道となっている。広さ的にはどうやら単線。西に向かって出発して大きくカーブして北へと向かう。大好物である競馬場コース跡のカーブではないが、これはこれで趣があるので写真を撮っておいた。


東京競馬場前駅があった当時から存在した地下道をくぐって競馬場方面へ。これが小説なら50年前へとタイムスリップするのだろうが、そんなことはなく、現代の競馬場の西門付近に出た。


ここから4コーナー付近にあるJRA競馬博物館へと向かうべく、競馬場通りを東に歩き始めた。すると左手、崖(府中崖線というらしい)の下に「馬霊塔」なるものを発見した。発見といっても、ずっとそこにあったわけで、若かった頃は目に入らなかったということだ。馬霊塔よ、スミマセン…。


左右には名馬の墓碑もあった。確認できた馬名はガヴアナー、クリツバメ、アカツキ、リード、ミスアスター、トキノミノル、トキノセフト、ニューコロンブス、レダ、フナエ、クモホウテン、マツカゼ(ゼではなくセにも見える)、コウキ、チョウセイ、オーミノル、フエアマンナ、サクラノイチ、タケノクニオー。
知っている馬も知らない馬もいた。最も有名なのはもちろん悲劇のヒーロー・トキノミノルだが、ガヴアナーも3戦3勝で1935年(昭10)東京優駿大競走を制した逸材だった。しかし、その2週間後、調教中のケガがもとで安楽死処分となったそうだ。こちらも悲劇のホースである。


過去の名馬たちにしっかりと手を合わせ、JRA競馬博物館へ。訪れた時は、レース創設30回を記念して「NHKマイルカップ展」が開催されていた。第1回覇者のタイキフォーチュンから全て覚えているのが恐ろしい。自分も年を取ったものだ。
競馬博物館での筆者のお気に入りは過去の重賞をPCで検索して見ることができるコーナー。今回はダイシンボルガードが勝った1969年(昭44)ダービーをチョイスした。
スタート直後に1番人気タカツバキが落馬。その瞬間「ああっ」という声がマイクに乗っていた。放送席の解説者が思わず漏らしたのだろうか。貴重な音声である。
そして直線。好位から粘るダイシンボルガード。ここで担当の石田健一厩務員が「オレの馬だ!」と叫びながらコースに出てきてしまった話は有名だ。その石田厩務員がテレビに映っていたかどうかを確認したかった。残念ながら?映っていなかった。
競馬博物館を出る。崖を登って武蔵国府八幡宮へ。ここでは参道を横切る京王競馬場線の姿を撮影したかった。漫然と府中競馬正門前で下車していた頃は想像もしなかったが、先日「東京競馬場80年史」(平成26年、東京競馬場発行)を読んで先人の苦労を知った。
地元の名士による座談会。「東府中から引き込み線をつくるには…地元では快く思わなかった方もいらっしゃったでしょうね」「甲州街道からの、元々あった参道を横切っちゃったんですよ…しょうがないことではあるんでしょうけど」。土地を買収し、お稲荷さんも移動したらしい。結構な苦労があったようで、これから府中競馬正門前で下車する際は、先人たちに感謝しなければならない。

無事、鳥居と電車が重なる様子をカメラに収めてフィニッシュ。東府中から帰ろうとしたら…何と倒木に列車が接触したとかで京王線が止まっていた。
こんな駆け足でなく、もっと丹念に見て行けよ、とガヴアナーやトキノミノルが引き留めている気がした。ホント、今まで見落としていてスミマセンでした。また手を合わせに行きます。