先日、競馬に詳しい友人と「GⅠや重賞ではないが心に刺さったレース」の話題で盛り上がった。
筆者が挙げたのは04年4月24日、京都のオーストラリアトロフィー。メジロマイヤーが勝った一戦だった。
レース前日の23日、メジロマイヤーを所有するメジロ牧場の総帥・北野ミヤさんが92歳で亡くなっていた。
メジロマイヤーはそのことを知るかのように、2着馬マイネルアムンゼンに直線でいったんは前に出られながら、ゴール前で首差、差し返して、“メジロのおばあちゃん”の墓前にトロフィーを届けた。
武豊騎手は「デビューの頃からお世話になった。ゴール前は、何とかおばあちゃんのために、と必死で追った。勝てて本当によかった」。田島良保調教師も「きっと、おばあちゃんが馬の背中を押してくれたんだ」と語った。

競馬は時々、本当にこういう小説か、漫画かということが起こる。20年以上が経過しても忘れない、心に刺さる一戦だった。
この日、筆者は東京・目白の北野家にいた。関係者に故人の思い出を聞くためだった。
92歳での大往生。1カ月前に自宅で倒れ、緊急入院したという。病床でミヤさんは「(故郷の)信州にみんなで行きたいね。そして花見をしたいね」と話していたそうだ。
奥平真治調教師(引退)が無念の思いを語った。「僕を男にしてくれた方。怒られたことも多かったが、いろいろなことが本当に勉強になった。何とかダービーを勝ってプレゼントしてあげたかったのですが…」
牝馬3冠メジロラモーヌをはじめ、宝塚記念馬メジロライアン、ダービー2着馬メジロアルダンなど、そうそうたる名馬をターフに送り出したが、唯一の心残りはダービーを北野家に届けられなかったことだった。
長男・俊雄さんが驚くような話を教えてくれた。「緊急入院した病床でも、うわごとのようにつぶやいていたんです。“あれは降着じゃない”って」
91年天皇賞・秋。メジロマックイーンは圧倒的な強さで1位入線しながら、2コーナーで進路妨害を起こしたとして18着に降着となった。競馬史に残る「世紀の降着」である。
ミヤさんは判定に憤然と不服を訴えた。訴訟も辞さず、ジャパンカップ、有馬記念も使わないと声を荒げた。JRAの説得もあって、レース翌日には態度を軟化させたが、ミヤさんの勝負への執念、北野家の天皇賞に対する思いが伝わってきた。
しかし、だ。ミヤさんにとって世紀の降着劇は終わっていなかったのだ。12年以上が経過してなお、これだけ勝負への執念を見せる。夫・豊吉氏の遺志を継ぎ、強い馬づくりに励んでGⅠを19勝。メジロ牧場を日本を代表するオーナーブリーダーへと押し上げた偉人の執念とは、これほど強烈なのか。驚くしかなかった。
今、こんなことを思う。99年エルコンドルパサーが凱旋門賞に出走する前。スポニチはミヤさんに話を聞いた。72年メジロムサシが凱旋門賞に挑戦した時のことだ。「私はいじめられた感じがして仕方がなかった。思うように調教させてもらえなかった」。天皇賞馬メジロムサシは19頭立ての18着に敗れた。
今年、日本馬はまたも凱旋門賞で凱歌を上げることができず「レースの質が違いすぎる。もう目指すべきレースではない」という声が上がった。分かる。だが、北野ミヤさんの無念の思いを知る者として、こうも思う。たとえ、それが理にかなった、当然の帰結だとしても、偉大な先人の無念を晴らしに行くことは、現代の日本のホースマンとして、非常に意味のある遠征なのではないか、と。






