ワールド・ベースボール・クラシック。日本は残念ながら準々決勝でベネズエラに逆転負けを喫し、初めて4強入りを逃した。
今年は米国をはじめ、どの国も本気で能力の高い選手を集めていると感じたし、しかもそんなスター選手たちがチームとして、しっかりとまとまっていた。これは厄介だと思っていたが、やはり簡単には勝たせてくれなかった。

ただ、選手たちには本当にいい経験になったと思う。メジャー所属の選手たちは、これをバネにさらに活躍してほしいし、国内の選手にはぜひ、チームにフィードバックしてもらいたい。ペナントレースが楽しみだ。
野球ラブの筆者。トレセンに通った頃は、同じく野球を愛する関係者と(管理馬、担当馬の話そっちのけで)ベースボール・トークに花を咲かせたものだ。
野球話に最もお付き合いくださったのは中村均元調教師(19年引退)ではなかったか。
84年オークス(トウカイローマン)を筆頭にGⅠ3勝、JRA重賞31勝を挙げた名伯楽。日本調教師会の会長も務めた。実力も人望もあった方だった。
中村さんのひいきのチームは南海ホークス(現ソフトバンク)だった。大阪球場へは何度、足を運んだか、数え切れないという。
野村克也、広瀬叔功と才能あふれる選手が躍動する中、中村さんの目を奪ったのは1959年(昭34)に38勝を挙げた、アンダースローの杉浦忠投手だった。「杉浦の球はそれはそれは凄かった。ホームベースの上でホップしていた」。“ナマ杉浦”を見たことがない筆者。興奮しながら師の話を聞いた。
調教師席の片隅には南海ホークスのマークをあしらったバッジが常に置いてあった。厩舎で帽子を作った時も、マークはホークスと同じ。「先生、南海と同じマークにしましたね」と筆者。すると、中村さんはニヤリと笑って「ふふふ、僕のイニシャルもNとHなんだよ」。ダブル・ミーニングだったのか!これはやられたと2人で大笑いした。
当時は巨人に人気が集中していた時代。関西在住とはいえ、そこまで南海を推した理由は何だったのか。
「下克上。これに尽きるよね」
長嶋茂雄、王貞治を擁し、日本一を重ねる巨人。一方、南海は人気のないパ・リーグにいながら、“考える野球”を追究した野村を筆頭に懸命に巨人を倒そうとした。
中村師の生き方も南海と共通した。厩舎には驚くような良血馬はおらず、レースに行っても人気はない。だが、そこで諦めることはない。調教を工夫し、レースでの作戦を工夫し、良血の人気馬たちに一泡吹かせる。これが中村師の生きがいだった。
84年オークスのトウカイローマンは9番人気だった。レース前、中村師は練りに練った作戦を岡冨俊一騎手に授けた。「いいか、1角を10番手以内で回って、内ぴったりと走れ。直線を迎えたら坂の上をゴールだと思って(ゴールの)1ハロン手前で先頭に立て」。岡冨騎手はその通りに乗り、桜花賞馬ダイアナソロンをわずかに封じ込んでみせた。
中村さんは戦国マニアでもあり、大坂の陣で徳川家康を苦しめた真田幸村を崇拝していたが、その話はまた稿を改めて披露したい。しかし、今のトレセンでこのような話をして、若い記者を育ててくれるような器の大きい調教師はいるのだろうか。昭和、平成は遠くになりにけり、である。






