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2024年12月07日 (日)

「日本遺産の構成文化財『梅林天満宮の流鏑馬』」

投稿日:

(熊本県玉名市)毎年11月25日

県の重要無形民俗文化財である伝統行事

学問の神様、菅原道真公を祀った梅林天満宮では毎年11月25日の例大祭で流鏑馬が奉納されます。

菅原道真公は平安時代、藤原氏が勢力を誇っていた天下の時に学問の力で国家の発展に貢献された人です。幼い頃から学問の才能があったため「神童」と称され、やがては学者としての最高位であった文章博士(もんじょうはかせ)に、そして右大臣にまで出世されました。しかし、その出世を藤原氏にねたまれて福岡県の大宰府の「権の帥(ごんのそつ)」として左遷され、その2年後の903年に59歳で亡くなりました。

梅林天満宮はその「学問の神様」として有名な菅原道真公を御祭神とする、太宰府天満宮の第一分霊社です。古くは「梅林山安楽寺天満宮」と称され、西暦936年(承平6年)にできて以来、1000年以上の長い歴史を刻んでいます。

前日の24日午前、所定の道順で小島河原に行き、菊池川の水をかけて身を清めます。午後には馬場を数回試走する馬場とおしが行われます。

梅林天満宮流鏑馬は、例年11月25日に行われる梅林天満宮例大祭に際し、神社南側の馬場において奉納される行事であり、地元では「ヤクサンドン」と呼ばれ親しまれています。

午前に境内では舞などが奉納されます。流鏑馬を奉納する一行は精進小屋を出て木葉川での汐取りなど神事を行い、夕刻にいよいよ馬上から矢を射る流鏑馬の奉納が始まります。

乗り手と節頭と呼ばれる世話役の方々。下・安楽寺・津留の各地区が交代で務め、前々日の23日の夕刻から精進小屋に入り、精進上げまでそこで過ごします。

乗り手は顔全体に濃くおしろいを塗り、笠に胸当て、狩衣に襷がけといった装束に身を固めます。弓に矢をつがえ、天地東西へと射放つ動作をした後、鳥居前を一巡して所定の位置に着きます。その後馬を全速力で疾駆させ、馬場に用意された3か所の的を次々に射ること3回、つごう9的を射て流鏑馬を奉納します。この時射た的の一部は、縁起物として観客が持ち帰ることが許されており、かつては競って奪い合われていたといいます。流鏑馬の奉納が終わると精進小屋へ戻り、神事の後、精進上げとなります。

天満宮前の長さ400mの馬場には3箇所的が立てられ、これを射ること3回、計9回、矢が放たれます。

流鏑馬の起源は定かではありませんが、寛永18年(1641年)の社領目録に「流鏑馬田」の記載があることから、寛永18年には既に行われていたことがうかがえます。

熊本県下で流鏑馬の奉納を行っている神社は複数ありますが、農村の中で精進小屋入りから、次の節頭を決める「おみくじ伺い」までの一連の神事を現在まで継承しているのは梅林天満宮だけであり、たいへん貴重なものといえます。

梅林天満宮の本殿・拝殿・楼門・鳥居は、いずれも江戸後期のものとされ、国登録有形文化財として登録されています。

梅林天満宮

熊本県玉名市津留499

アクセス
車◉九州縦貫自動車道菊水ICより約10分
電車◉九州新幹線新玉名駅よりタクシーで約10分
JR鹿児島本線玉名駅よりタクシーで約10分

梅林天満宮の起源

梅林天満宮の起源は承平6年(936年)太宰府天満宮より菅原道真公の御分霊社をいただいたことです。太宰府天満宮より菅原道真公の御分霊社をいただいた神社である「天満宮」は全国に一万二千あるといわれており、梅林天満宮はその中で最古の神社になります。かつては現在の安楽寺上村に建立されていましたが、永禄4年頃(1561年)に火災により焼失したため、津留に現在の社が建立されました。

取材後記…
梅林天満宮の合格熊手は5つの爪が内側に向いていて、これには合格をつかみ取る、という意味があるそうです。そろそろ受験のシーズン。道真公のご利益にあやかってはいかがでしょうか?文/邦馬

取材協力・文章/写真提供

梅林天満宮
https://bairin-tenmangu.jp/
096-857-8234

玉名市役所 教育委員会 文化課
TEL 0968-75-1136

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