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2025年03月20日 (木)

「氣多大社の平国祭『おいで祭り』」

投稿日:

(石川県 羽咋市)毎年3月18日~23日

羽咋・鹿島郡内の二市五町を6日間をかけて巡る神幸祭

氣多〔けた〕大社は羽咋〔はくい〕市北方、日本海に面して位置し、縁結びの神様である男神の大己貴命〔おおなむちのみこと〕・女神の菊理媛神〔くくりひめのかみ〕が二柱鎮座する特別な縁結びの社です。

氣多大社が中央の文献に初めて見えるのは『万葉集』です。能登半島の要衝に鎮座する氣多大社の神威は中央国家まで及んでいました。近世には、前田利家をはじめ歴代の藩主が崇敬し、祈願、祈祷はもとより、本殿(祭神に大巳貴命)、拝殿、神門、摂社若宮神社(祭神に事代主命〔ことしろぬしのみこと〕)、摂社白山神社(祭神に菊理媛神)(以上国指定重要文化財)、神庫、随身門(ともに県指定文化財)の社殿の造営をしました。また加賀藩の保護した社叢(国の天然記念物)には奥宮が鎮座し、「入らずの森」と呼ばれる聖域となっています。

氣多大社では毎年3月18日から23日(近年はコロナ禍や能登半島地震により日数を短縮。2025年は18日から21日で斎行)の6日間、『平国祭』が斎行されます。

氣多大社の拝殿(手前)と本殿(奥)。どちらも国指定の重要文化財です。
手前にあるのが神門。こちらも国指定の重要文化財となっています。

この『平国祭』は氣多大社から北方約30kmに鎮座する石川県七尾市所口町の気多本宮へ渡御する大規模な神幸祭で、羽咋・鹿島郡内の二市五町を回ります。神輿の長い行列が早春の能登路を巡行し、一般には「おいで祭り」と呼ばれています。沿道には人々が集まり、神幸を迎えます。「寒さも気多のおいでまで」といわれ、神が民衆の中においでになり、一体となる能登の春祭りとして親しまれています。 

また、往路の日、中能登町金丸の宿那彦神像石神社に1泊し、翌日同社の少彦名命〔すくなひこなのみこと〕が神輿に同座(2025年は能登半島地震の影響により中止)して七尾の気多本宮に赴き、1泊して祭典を斎行してから帰途につきます。これは氣多大社の大国主神〔おおくにぬしのかみ〕が少彦名命とともに能登を平定した往時をしのぶ行事だといわれています。

帰社した神輿は4月3日の例大祭まで拝殿に安置され、平国祭がそれまで連続していると伝えられています。 

平国祭は氣多大社鎮祭の由来を伝える重儀で、祭祀の性質としては祈年祭に属しています。まことに大規模な渡御祭として全国的にも注目されています。

本殿左にある若宮神社と本殿右にある白山神社も国指定の重要文化財です。氣多大社には計5つの国指定の重要文化財があります。

氣多大社は縁結びの社として大変有名です。おいで祭りの期間に結婚式をあげた2人。神馬も暖かい眼差しを送り、新婚夫婦の門出を祝福しているようです。

能登國一宮 氣多大社

石川県羽咋市寺家町ク1-1 

アクセス
車◉のと里山海道  柳田ICより志賀町方面へ約5分
電車・バス◉JR西日本七尾線  羽咋駅から、北鉄能登バス
(高浜、富来方面行き)一の宮  バス停下車~徒歩約5分

雪化粧をまとった氣多大社。本殿の後ろに広がる社叢(しゃそう)は「入らずの森」と呼ばれています。神域は神聖視されていて、昭和42年5月に国の天然記念物に指定されました。

氣多大社の起源

氣多大社は、氣太神宮(『万葉集』)、氣太神(『続日本紀』)、氣多大神宮(『続日本後紀』)のほか、氣多大神、一宮大神、能登大神とも称されていました。六国史で大神宮と呼ばれたのは氣多大神宮だけです。蝦夷の境界線であった能登国氣多神宮は越前国気比神宮、常陸国鹿島神宮、下総国香取神宮と共に「日本四社」と称せられていました。明治4年(1871年)に国幣中社、大正4年(1971年)には国幣大社に列せられ、現在も北陸道屈指の大社として知られています。

取材後記…
氣多大社では毎年12月16日に斎行される『鵜祭(うまつり)』も有名です。七尾市の鵜浦で捉えた鵜を3人の鵜捕部(うとりべ)が氣多大社まで徒歩で運び、本殿に放った鵜の動きで新年の吉凶を占う神事です。この鵜祭は国指定の重要無形民俗文化財となっています。 文/邦馬

取材協力・写真提供
能登國一宮 氣多大社
https://keta.jp/
0767-22-0602

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