今回から新しいシリーズとして、個別に馬の紹介をさせていただく。基本的には僕が担当した馬が中心だが、それ以外でも記憶に残る馬達の話も追々書いていきたい。(馬齢数は今の表記)
昭和の時代、若手の厩務員が最初のうち担当させてもらえる新馬は、競馬会から均一の金額で振り分けられた抽選馬(2004廃止)や、牧場でやんちゃでいわくつきの馬などがほとんどだった。
僕が伊藤雄二厩舎に入って1年と少し経った頃、性格の悪い暴れん坊の新馬が入って来るという情報が流れた。
皆「誰がやるんやろう?」とビクビクしていたが、案の定、一番新人で若く、身体も大きい僕が担当する事になった。
マチカネコーシ(牡、父ノーザンアンサー、母イチアサアケ 1984~1987在厩)
噛む蹴る立つの3拍子に加え、蹄の裏を掘る時などの脚の上げ下げもできない。蹄鉄の打ち替えも、鼻ネジ(馬を静かにさせる道具)などを駆使して、数人がかりで大騒ぎでやっていた。
「俺、いつかこの馬に殺されるんとちゃうか…」と思ったりもし、半分ジョークだが辞世の句を書いた事もあった。
馬房の奥に居ても、飛びかかってきて噛みにくるので、前を歩く時も気が抜けなかった。他の皆にも注意していたが、犠牲者は増えるいっぽうで、僕自身も生傷が絶えなかった。
堀口さん(『心の師匠』)の教えを守り、怒るのを我慢して、毎日大きめの人参を食べさせて気をそらし、顔のいたるとこを撫でまくっていた。するとそのうち人参さえチラつかせたら機嫌が良くなるようになり、噛んだり蹴ったりする事も徐々に減っていった。
性格が落ち着いてくると成績も常に上位で安定してきて、古馬オープンに上がるまで何と7勝もした。当時は馬齢が上がるとクラスが下がるという変なシステムがあったのだ。
その頃人気だった映画「ロッキー」にあやかり、自費で作ったアメリカ国旗メンコも好評だった。
念願の古馬のオープン馬となったコーシは、1987年5月京阪杯(GⅢ)に出走。
前日からずっと降り続いた雨で、馬場は不良。2番人気に支持されたコーシは泥んこ馬場をもろともせず終始先行。直線に入り馬場の真ん中を通って、内ラチギリギリを走って逃げていたマルカセイコウを捉えた。周りの皆も「田中、勝ったぞ!」と大興奮。僕も勝利を確信し体が震えた。
その時だった。内にいたマルカセイコウが急に斜めに走りだし、真ん中を走っていたコーシに近づいていった。570kgの巨体が視界に入ったコーシはビックリしたのか大きく外によれた。接触して、弾き飛ばされたかのようだった。
また立て直して追い詰めたが、そのロスが響いて2着でゴール。身体中から力が抜けて立ち上がるのもやっとだった。
上がってきた泥んこのコーシを見て、悔しさより、愛おしさでたまらなかったのを今でも覚えている。
3年間ほぼ休みなく走り続けてきたコーシはこの2走後、屈腱炎を発症し、引退抹消となった。
コーシとの月日は僕にとってかけがいのないものとなり、調教師からの信頼もワンランクアップした。
そしてその後、担当する馬のレベルに大きく影響していく。