先生が調教時間前、厩舎に出てこられた時は、まず人参を切り全ての馬に食べさせる。それが朝イチのルーティンだった。

　先生の顔を見ると、ほとんどの馬が一斉に鳴き出す。自分達に厳しい調教と競馬を課している張本人なのだが、そんな事は知る由もなく、馬達にとってはただの優しい「人参おじさん」だったのだろう。

　「毎日人参をやっていると、普段喜んで鳴いて出てくる馬が今日は奥でじっとしているとか、人参の噛み方がおかしいとか、その時の馬の状態が良く分かる」と言って、引退の日までずっと続けていた。

　だから僕らは2歳新馬が入って来たら、真っ先に人参を好きにさせなければならなくて(馬と人参 参照)、これが結構大変な仕事だった。

　しかし伊藤先生はそういう新しいものはすぐ試してみて、それが良いと思ったら昔からやってきた事を簡単に捨てられる人だった。朝の調教にクーリングダウン（調教後の常歩運動）などを積極的に取り入れたのも、栗東ではかなり最初のほうだったと思う。

　暇があれば北海道へ渡り、育成牧場にいる自厩舎の馬のチェックはもちろん、産まれて間もない馬やセリに出る馬などを見て回っていた。

　当時これだけ頻繁に馬を見に行っていた調教師はあまりいなかったのではないか…

　当時の海外遠征といえばドバイの国際招待レースが始まったくらいで、他の海外遠征はかなりリスクが高く、オーナーサイドもあまり乗り気ではなかった。

　先人が道を開いてくれた今の時代なら、伊藤先生も自厩舎の馬を海外レースにどんどん出していただろうし（特にファインモーション）、海外セールなどで世界中を飛び回っていたのではないかな？

　調教師をしていた時代が少し早すぎた、と言わざるを得ない。

　2年前の夏、同じ伊藤雄二厩舎出身で現在、梅田智之厩舎の同僚である寺田義明助手と一緒に札幌に滞在している時、伊藤先生の訃報を聞いた。

　コロナ禍という事もあり、すべて身内で葬儀はすませたとのことだった。

　この訃報の後、続けざまに寺田義明助手と僕がレースで勝利を収めた。梅田先生も「伊藤先生が勝たせてくれましたね」としみじみ語ってくれた。

　寺田は僕に「伊藤先生がスタンドにいるみたいな感覚になりました。」「勝っても、ちゃんとケアしとけよ！とよく言われましたね。」と涙ぐんだ。

　エアグルーヴが勝った1997年の札幌記念のレース後、勝った余韻に浸って有頂天だった僕に「天皇賞行くぞ、しっかりケアしとけ！」と兜の尾を締められたのを僕も思い出した。