「世界の矢作」と言われて数年、もう異論はないだろう、「日本一」の調教師だ。
いや、海外のトップ厩舎との馬房数を比べたら世界一と言っても過言ではない。
矢作師の厩舎実績などを今更語る事はしない。それはプロにお任せする。
ここでは僕が30数年間、同級生の友人として接してきて感じた「人間・矢作芳人」の人となりをほんの少しだけお話しようと思う。
矢作師と出会ったのは20代の半ばを過ぎた頃、僕の競馬学校の同期で美浦の調教師の息子さんが共通の友人で、彼を通じて知り合ったのが最初だと思う。
ほどなくして栗東トレセン同級生会(1960年4月~1961年3月生まれ)が発足して、飲み会などをするようになり、そこで親交ができた。
僕が彼と一番行動を共にしたのは30代の頃。その調教助手時代の彼はまさに「スーパーマン」だった。
まず厩舎で一番仕事量が多い、持ち乗り調教助手であること。5児の父親であること。調教師試験合格を目指して、日夜勉強していたこと。「旅打ち」と題して、日本全国の競輪場を回っていたこと。雑誌や会報のコラム(競馬だけではなく競輪も)の連載を数本かかえていたこと。交友関係も趣味も広く、僕らを含め多くのグループに参加し遊んでいたこと。
僕らはいつも「いつ寝てるんやろう…もしかしたら矢作は2人おるのかも?」なんて冗談を言うほど、忙しい毎日を過ごしていたと思う。
まあ5児の父親という項目に関しては、奥様の久子さんの力が偉大だったと付け加えておく。
当時、何かしら理由をつけては矢作家で宴会をさせてもらっていた。1人2人ではなく、いつも5~10人くらいは集まった。でも久子さんはいつも嫌な顔一つせず、手料理をふるまってくれた。この時のメンバーを競輪用語にちなんで「矢作ライン」と呼んでいたが、メンバーは昔から現在にいたるまでずっとお世話になりっぱなしの久子さんには、今でも頭が上がらない。
彼は20代の時ゴルフを少しやっていたが、さすがに練習する時間がなかったので中断した(調教師になってから復活)。しかし開成高校テニス部の腕前で僕らの私設テニス同好会(金曜テニス部)では部類の強さを誇っていた。
「開成ではテニスと遊びばっかりやってた」と言っていたが、「いやいや、まず開成に入るのが凄すぎる」と僕らは思っていた…
彼は僕達と夜に遊んだり飲んだりする時は、朝の仕事に行く前に調教師試験の勉強をしてると言っていた。
昔も今も調教師試験を受けている人のほとんどが、自分の自由な時間のほとんどを勉強に費やしていると聞いた。合格までは「趣味も好きな酒も絶つ」という人も多いらしい。
でも矢作師は「それは俺のやり方ではない、普通に皆と遊んで合格したい!」といつも言っていた。
彼が調教師試験合格までに数年を費やしたのは、僕ら悪友達の責任も多分にあるだろう。
これだけ有名になり多忙になった昨今でも、僕を含めた「矢作ライン」メンバーや全国に散らばる昔からの友人をいつも気にかけてくれる。
出張先ではいつも僕らをご飯に誘ってくれるし、矢作厩舎のゴルフコンペなど色々なイベントにも声をかけてくれる。
数年前の話だが、矢作師が函館で競輪ファンとして知り合った、30年来の友人の大濱さんという方の定年退職慰労会を町外れのスナックでやっていた。忙しいのは分かっていたが一応矢作師にも声をかけた。「いやぁ、その日は馬主さんとご飯なんやわ…」と残念がっていた。彼が夏の北海道開催で競馬場に来ている時は、スケジュールびっしりなので当たり前だ。
でもそのスナックに突然来てくれたのだ。「馬主さんとのご飯抜けてきた」らしい。
大濱さんがめちゃめちゃ感激したのは言うまでもない。
僕らが主催するゴルフイベント(泊まりなど)や宴会なども、可能な限り夫婦で参加してくれ、色んな厩舎の人達を楽しい話で笑わせてくれる。
どれだけビッグになっても、僕らの前では昔と何も変わらぬ、遊びのリーダーなのだ。
でも彼の魅力はまだまだ奥が深い……それはまた次回。