UMATO

2025年12月02日 (火)

 この僕のコラムでは、かつて担当していた馬の話や、僕がこの競馬社会で出会った人達などの紹介を中心に書かせてもらっている。

 馬に関しては、エアグルーヴやファインモーションなどの名馬のバーターみたいな扱いで、他の無名の馬の話も紹介しているが、この競馬社会で長年馬を担当してきた厩務員や助手達全てに通じる話だと思っている。
 最初から名門厩舎に配属され、いきなり名馬を担当したりのエリート街道を進む人もいるにはいるが、だいたいは下のクラスの馬とかの段階を踏んで上がっていくものだ。
 そして厩舎を移籍(解散含む)したりのターニングポイントで、また人生が大きく変わるとかもある。
 そうした僕たち競馬人の波乱万丈の馬や人との付き合いを、少しでもファンの方々に分かっていただけたら幸いだ。

 これからまたそんな愛すべき馬や、大好きなホースマンのエピソードをどんどんお話させてもらおうと思うが、僕自身の競馬史において今までで書き忘れた部分がある。

 それは僕が馬のド素人だった頃の「競馬学校」時代だ。
 JRAの競馬学校は1982年の4月に開校した。騎手課程と厩務員課程があり、騎手課程の3年間は今と同じだ。
 厩務員課程は時代によって変わり、開校からしばらくは3ヶ月間、途中から6ヶ月間となり、現在は3ヶ月ごとに入学しての6ヶ月間となっている。

 僕たちの時代の競馬学校は、1からの手探りの状態で始まった。
 それまでこの競馬社会で厩務員になるには、簡単な試験はある事はあったようだが大々的には公募せず、ひっそりと行われていたようだ。
 厩務員組合も強く、内輪意識が強かった昭和の時代、新規で入る人のほとんどが厩舎従業員の2世で、外部から入る人をできるだけ制限していたかのようだった。

 JRAがどのような考えで競馬学校を開校したか詳しくは知らないが、競馬社会を大きくする為のレベルアップの意味合いも含めて、外部からも優秀な人材をたくさん入れようとしたのではないか。
 反対もかなりあっただろうが、そのおかげで僕たち外部の人が普通に入れたり、中の2世たちのレベルも上がったのだから、良い改革だったのだと思う。
 実際、近20年くらいは僕みたいな馬乗りが下手なポンコツは姿を消し、知識を含めてレベルの高い若者が増えた。競馬学校様々と言えるだろう。

 開校時の受験資格は「28歳未満で中学校卒業程度の学力を有し、体重60kg以下を保持できる人。乗馬や馬を扱った事があるかは問わない」となっていた。
 この受験資格は数年続いたが、期間が6ヶ月となった頃からかなり厳しくなり、受験資格に「牧場経験や乗馬経験など2年以上を要す」などの項目が付け足され、僕らのような馬の素人は試験さえ受けられなくなった。

 まあ僕は最高のタイミングでこの馬社会に入れたと言っていい。当時は家の事情もあったので、2年以上牧場へ行くとかなら断念していただろう。

 僕が競馬学校の試験を受けようと思ったのは1981年の末頃。
 競馬場でパトロールフィルムの撮影の仕事をしていた先輩が「おう田中、お前厩務員になりたいとかゆうてたな。競馬場にこんなん置いてたわ」と言って、新設される競馬学校の入学願書のパンフレットを僕に渡してくれた。

 そのパンフレットを見た瞬間、激しい衝動を受けたのを今でも覚えている。今思えば人生の大きなターニングポイントのひとつだった。
 サラリーマンをしていた僕だったが、もう心はすぐ決まった。
 当時177cmでベスト体重が67〜68kgだった事から、上限の60kg以下に落とすための半年かけての減量作戦が始まった。
 会社帰りに家から10km手前の駅で降りて走って帰ったり、朝ごはんだけしか食べない日もザラで、ボクサーのような毎日を過ごしていた。

 試験はその年の4・7月生と、10月・翌年1月生の2回に分かれて実施され、僕は減量が間に合わなかったので2回目の試験を受け、10月生(3期生)に無事合格した。
 8月下旬から、アメリカ(LA)に移住した友人の所に3週間ほど遊びに行っていた時に合格の知らせを受けた。
 もし落ちていたら、何回か観に行ったハリウッドパーク競馬場で不法移民として働いていたかも知れない。

1982年9月上旬あたり、LAのアナハイムスタジアム(今はエンゼルスタジアムに新設)前の僕。この時期に競馬学校の合格通知を受け取った
同じく1982年9月上旬、LAの友人の家の前にて。競馬学校入学が決まったので、アメリカでも減量していて、この時の体重は約60kg。

 そんな紆余曲折があり、競馬学校3期生として入学した僕だが、何せ乗馬センターに2回ばかり行っただけの馬ド素人。
 同期生は13人で、乗馬や牧場経験のないのは僕を含めて6人。高校大学の馬術部は4人いた。
 その13人の中で東西トレセンの2世は6人だった。

入学した当初の僕たち競馬学校3期生。

 現在は6ヶ月とはいえ、全員乗馬(馬術)の基礎ができている人ばかりなので、基本は全て省いた騎乗訓練で、かなり余裕のある時間配分だと聞く。

 僕らの時は3ヶ月だったが、ド素人が6人(馬に乗れない2世含む)もいたので、本当の1からで、朝から暗くなるまで乗馬の練習と馬学などの勉強に明け暮れた。
 おまけに僕など数人は60kg以下の体重制限が地獄で、毎日体重計とのにらめっこだった。

多分僕の人生で一番体重が少なかった時の写真で約58kg。馬は当時学校にいたリュウキコウ(1978目黒記念・京都大賞典)。

 休みも月2日(朝夕の飼葉などは当番制)で、門限は18:00。
 たった3ヶ月間しかないので、びっしり詰め込んだ訓練と授業の毎日だった。

 次回はそんな3ヶ月間の苦楽の思い出をお送りする。

田中一征 (Kazuyuki Tanaka)

1960年大阪府泉大津市生まれ
JRA栗東トレーニングセンターで、1983〜2007伊藤雄二厩舎、2007〜2025梅田智之厩舎に厩務員として在籍し、2025年7月に定年退職。

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