ライスシャワー、父リアルシャダイ・母ライラックポイント(父マルゼンスキー)
25戦6勝(G1レース、3勝を含む)の戦績を収め、黒鹿毛の馬体から「黒い刺客」と呼ばれたライスシャワー。
ミホノブルボンの無敗の二冠馬誕生となった、平成4年(1992年)第59回日本ダービーで16番人気ながら2着に好走し、世間にその名を知らしめた。
秋の菊花賞トライアルの京都新聞杯では2番人気に支持されるも、ライバルのミホノブルボンにまたしても敗れた。
しかし、日本ダービーで4馬身差あった着差が、1馬身半まで縮まっていた。
迎えた第53回菊花賞では終始ミホノブルボンをマークし、先に抜け出したミホノブルボンに対し内のマチカネタンホイザ、外のライスシャワーが三冠を阻止すべく追いすがり、残り100mで三頭の激しい争いも、最後に一伸びしたライスシャワーが1馬身1/4差をつけて菊花賞馬に輝いた。(ミホノブルボンは惜しくも2着でゴール)
無敗の三冠達成に大きな期待をしていて、集まった京都競馬場のファンからは、ゴールシーンでの落胆の溜息が、ライスシャワーのファンからは、新たな勝者への拍手が入り混じった異様な雰囲気であった。(シンボリルドルフの無敗の三冠に魅せられたワタシの中で、夢の一つである無敗の三冠馬誕生のシーンを自分の手で撮影出来るチャンスに、意気揚々として狙うも惜しい敗戦に激しく落胆したものだ…決して長距離血統では無いミホノブルボンのあの魂の走りには大いに感動はした)
翌年(1993年)の第107回天皇賞春では、このレース三連覇を目指すメジロマックイーンの偉業を阻止してG1二勝目を挙げ、京都競馬場での3000m(菊花賞)と3200m(天皇賞春)の長距離レースで無類の強さを発揮し、三冠阻止に三連覇阻止と大仕事をやってのけたライスシャワーに対して「刺客」のニックネームが定着し始めたのがこの頃だ。
1993年の天皇賞春を勝ってからスランプに入り、勝てない期間が続いたが二年後の(1995年)第111回天皇賞春でステージチャンプとの、ハナ差の接戦をしのいで長距離G1三勝目(全て京都競馬場での勝利)となる2年ぶりの勝利を挙げて、京都競馬場の申し子とも呼ばれるようになった。
この時の天皇賞春は混戦模様で接戦になりそうだったのと、ライスシャワーが勝った場合に過去の写真とアングルを変えたかったので内馬場から狙うことにした。
結果、予想通りに内と外に分かれての大接戦で、いつものように外ラチからの撮影では、ライスシャワーかステージチャンプのどちらかしか狙う事しか出来ず(レース写真を失敗していたかもしれない)、結果的に内馬場からの撮影で二頭とも写っている写真を撮る事が出来た。(馬券の読みは芸術的に下手だが、写真(レースの流れ)の読みの嗅覚は自分でも凄いと思う時がたまにある、これを馬券に活かせたらなぁと毎回思うのだが…)
G1三勝目を挙げて名馬の仲間入りを果たしたライスシャワー、次走は春のグランプリ・宝塚記念へと駒を進める。
次週へ続く