1990年までは東西の3歳(現在の表記で2歳)チャンピオン決定戦として、中山競馬場では朝日杯3歳ステークス、阪神競馬場では阪神3歳ステークスが、それぞれ別々に行われていた。
1991年に3歳の牡・牝のチャンピオン決定戦として、牡馬は朝日杯3歳ステークス(2001年に馬齢表記を国際基準へ変更した際に朝日杯フューチュリティステークスと名称変更)。牝馬は阪神3歳牝馬ステークス(こちらも2001年に阪神ジュベナイルフィリーズと変更)に分けられた。
これによって3歳(今の2歳表記)の牡馬、牝馬のチャンピオン決定戦として、定着していった。
1994年は後に日本の競馬を大きく変えた、偉大な種牡馬サンデーサイレンス(アメリカG1レース6勝の実績を誇り、引退後に社台スタリオンステーションにて種牡馬入りし、1995年から13年連続リーディングサイアーに輝いた)の初年度産駒がデビューした年であった。
その初年度産駒に父と同じ青鹿毛のフジキセキが、新潟競馬場でデビュー。出遅れて最後方からの競馬も、直線に向いて先頭に立つと8馬身差を付けて快勝。
続く、もみじステークスでは馬なりのままレコードタイムで勝ち、クラシック候補として名前が挙がった。
3戦目に臨んだのが朝日杯3歳ステークス。
それまでの勝ちっぷりから、単勝1.5倍の圧倒的な人気に支持されたフジキセキ、余裕の走りで先頭に立った。外から鋭く伸びて来るスキーキャプテンに並ばれるも、もう一度加速する勝負根性を見せ、スキーキャプテンをクビ差退けて、3連勝の無敗でGⅠホースとなった!
このレースで鞍上の角田晃一騎手はムチを使っておらず、着差以上に強い勝ち方であった。
初年度産駒のフジキセキは偉大な父、サンデーサイレンスに最初のGⅠ勝ちをプレゼントした。
JRA賞最優秀3歳牡馬に当然選ばれたフジキセキ、翌シーズンのクラシック戦線の主役となった。
4歳の初戦は皐月賞トライアルの弥生賞に出走。圧倒的な1番人気で臨んだ一戦では、余裕の走りで直線先頭に立ったのも束の間、追い込んで来た2番人気のホッカイルソーに一旦並ばれる。が、またも勝負根性を見せて、朝日杯3歳ステークスの再現かのように再び加速。
あっという間に2馬身半差をつけて、連勝を4に伸ばした。
明らかな格の違いを見せつけ、クラシック候補から無敗の三冠馬への期待が大きく膨らんだ一戦となった。
しかし、その時は突然に訪れた。
皐月賞に向けて調整中に左前脚に屈腱炎を発症し、全治1年以上との診断が下されるとそのまま電撃引退となり、そのシーズンから種牡馬入り。
カネヒキリ、イスラボニータなど、多くの活躍馬を輩出し、種牡馬としても成功したフジキセキ。
怪我が無ければ無敗の三冠馬になっていたのか? それは神のみぞ知るが、もし故障していなければ日本の競馬史に大きな足跡を残したことは間違いないだろう。
無敗のまま早期引退した為「サンデーサイレンスの最高傑作」と呼ばれるが、フジキセキの現役生活をもう少し見ていたかったし、もっともっとその雄姿を数多く撮影したかった。早すぎる引退は30年経った今でも残念でならない。