野上修さんと知り合ったのは2012年7月。
フェイスブックのメッセンジャーにメールが届いた。
それまで美浦トレーニングセンターで栗田厩舎の調教助手をしていて、栗田厩舎時代にはヤマニンゼファーにも乗った事があったと。(ヤマニンゼファーのコラム)
辞めてすぐのこの時期は、厩舎関係者などに向けて競馬のノベルティグッズなどを制作販売する仕事をしているという。
写真撮影にも興味を持ち始めた頃で、一眼レフカメラを買って写真を勉強中だと。
それまで競走馬に乗る仕事をしていたが、ワタシの競馬写真を見て、競馬をこういう風に撮影する人がいるのだとビックリして、お近付きになりたい!とメールを送ったという。




フェイスブックでお友達になり、東京のレース撮影のタイミングでお茶をする事になった。
昔から言われるのだが、競馬写真だけを見ている人からすれば、ワタシの名前の漢字「岡田修平」の文字と、撮る写真の感じから、クソ真面目でお堅い職人気質の、こだわりの強そうな人だと思われがちだ。
実際会った事のある人はご存知だろうが、冗談好きで関西人を地で行くようなタイプだ。
このお茶の時もどんな堅物かと思われていたが、話を始めるとおしゃべりな陽気なオッサンだったと驚かれた。
この出会いをきっかけに、既に写真撮影を始めていた野上さんとカメラ談義に撮影談義と話が弾んだ。
一緒に撮影に出掛けるなど親睦が深まっていき、初めて明治神宮に撮影しに行った時に、普段ワタシが使っているフラッグシップカメラを「使ってみます?」と渡した。
俺のカメラに指一本も触れさせない!的なオーラが出ていたのか、この時もとても驚かれた。
フランクすぎるワタシと、野上さんの距離はすぐに縮まった。
撮影の事を聞かれても、今時のデジタルカメラになってカメラの性能が上がると誰でも撮れるんですよ!と、こだわりのかけらも見せないワタシ(笑)
理論とか数値とか、明確な基準で撮影している風に思われていたが、その場その場の感覚で撮っていた。
「岡田さんって、長嶋茂雄さんみたいですね」
自分では意識していなかったが、確かに撮影時に感覚を大事にしながら、ビューンとかビャッみたいな自分なりの手応えを持っていた。
「もっともっと世の中にアピールしましょう」という、野上さんからの提案でブログを始めた。
撮影旅行にも何回も出掛け、真冬の知床へ野鳥や野生動物を撮りにも行った。













年に数回は食事をする関係だったが、コロナ騒動でここ数年は電話のみだった。
野上さんはコロナ騒動の頃から、元藤澤厩舎でグランアレグリア担当の渡部厩務員と乗馬ユーチューブ「おさむとなべ」を始めた。
移動制限等が徐々に解除されてきた時期に、ワタシも撮影で何か協力出来る事が無いか?と話をしていた。
2019年を最後に会えずにいたが、久しぶりに食事もしましょうとも話した。
2022年1月、渡部厩務員から着信があった。
「修さんが亡くなられました…」
青天の霹靂とはこのことだ。
心筋炎で急逝された、と。
2年半ぶりの対面は、棺の中の修さんだった。
遠い将来ワタシもそちらへ行くので、また撮影旅行に行きましょう!
それまでブログは続けます。

安らかに。