UMATO

2025年01月30日 (木)

2004年 ジャパンカップ©スポーツニッポン新聞社

ゼンノロブロイ
Zenno Rob Roy

牡、2000年3月27日生まれ
父サンデーサイレンス
母ローミンレイチェル
母父マイニング
馬主/大迫忍氏、大迫久美子氏
調教師/藤沢和雄
生産牧場/白老ファーム
通算成績/20戦7勝

 中央競馬の短期免許で来日する外国人騎手のさきがけとなったフランスのオリビエ・ペリエ騎手が2024年4月の騎乗を最後に現役を引退した。JRA通算379勝、JRA GⅠ 12勝など数々の記録を持つペリエ騎手だが、その中でも史上最多である有馬記念3連覇は見事だった。3連覇目に騎乗したのがゼンノロブロイだった。

 1番人気に支持されたゼンノロブロイは1枠1番からスタートした。先手を取ったのはタップダンスシチー。前年のジャパンカップ優勝馬で、この年も宝塚記念を制していた。しぶとい先行力が武器だった。

 ペリエ騎手は「ライバルはタップダンスシチー1頭」と決めつけたようにマークした。1周目の直線が終わり、1コーナーを回る時点でゼンノロブロイを2番手に導いた。それ以降も常にタップダンスシチーを射程に入れ、2番手をキープした。最後の直線、ペリエ騎手のステッキが動いた。タップダンスシチーとの距離は徐々に詰まり、残り100㍍付近で先頭に立った。だがタップダンスシチーも抵抗する。2頭の競り合いは最後まで続き、ゼンノロブロイが半馬身先着したところがゴールだった。

 02、03年と、シンボリクリスエスとのコンビで成し遂げた2連覇に続く、ペリエ騎手の有馬記念3連覇が達成された瞬間だった。と同時に、ゼンノロブロイにとっては、天皇賞・秋、ジャパンカップ、有馬記念という秋の古馬GⅠ3連勝という偉業のフィニッシュでもあった。

 3歳時のゼンノロブロイはダービー2着、菊花賞4着、有馬記念3着と、あと一歩勝ちきれないレースが続いた。本格化したのは4歳秋だった。ペリエ騎手とコンビを組んだ天皇賞・秋は、中団を進み、最後の直線では粘るダンスインザムードを競り落として優勝した。ダンスインザムードもゼンノロブロイと同じ藤沢和雄調教師が育てていた。ゴール後はゼンノロブロイのペリエ騎手とダンスインザムードのルメール騎手がハイタッチをかわすシーンが見られた。続くジャパンカップは激しい2着争いを尻目に3馬身差の快勝。天皇賞・秋がGⅠ初制覇だったことが嘘のような充実ぶりを披露した。「善戦マン」はいつの間にか「負けない馬」に変身していた。

 天皇賞・秋、ジャパンカップ、有馬記念という秋の古馬3大レースを同一年に全勝すると本賞金とは別に2億円の褒賞金がJRAから提供される。この2億円を手にした第1号が00年のテイエムオペラオーだった。ゼンノロブロイは第2号になった。

 5歳になったゼンノロブロイは夏に英国へ向かった。出走したのはG1インターナショナルSだった。初めてコンビを組む武豊騎手とのチャレンジはクビ差の2着。惜しい敗戦だった。優勝したエレクトロキューショニストは、その翌年、世界最高賞金のドバイワールドカップで1着になった。ゼンノロブロイのすごさが改めて証明された。

2004年 有馬記念©スポーツニッポン新聞社

 現役を引退したゼンノロブロイは種牡馬になった。オークス馬サンテミリオンなどを送り出した。22年9月2日、心不全のため死亡した。22歳の生涯だった。

有吉正徳

1957年、福岡県出身。82年に東京中日スポーツで競馬取材をスタート。92年に朝日新聞に移籍後も中央競馬を中心に競馬を担当する。40年あまりの取材で三冠馬誕生の場面に6度立ち会った。著書に「2133日間のオグリキャップ」「第5コーナー~競馬トリビア集」

おすすめ記事

  • 凄馬|サイレンススズカ

    2025年01月24日 10時00分

  • 凄馬|モーリス

    2025年01月17日 10時00分

  • 凄馬|クロノジェネシス

    2025年01月10日 10時00分

  • 凄馬|コントレイル

    2025年01月03日 10時00分

  • 凄馬|メイショウサムソン

    2024年12月20日 10時00分

  • 凄馬|クロフネ

    2024年12月13日 10時00分

PAGE
TOP