サイレンススズカ
Silence Suzuka
牡、1994年5月1日生まれ
父サンデーサイレンス
母ワキア
母父ミスワキ
馬主/永井啓弐氏
調教師/橋田満
生産牧場/稲原牧場
通算成績/16戦9勝
サイレンススズカは「音速の貴公子」と呼ばれた。伝説のF1ドライバーがいた。ブラジル出身のアイルトン・セナだ。F1世界選手権で3度世界チャンピオンに輝くなど、とてつもない速さから「音速の貴公子」というニックネームがつけられた。1994年5月1日、そんなセナがレース中の事故で死亡した。34歳の若さだった。
サイレンススズカのけた違いのスピードを目の当たりにしたファンが、いつしかセナと同じ愛称でサイレンススズカを呼ぶようになった。94年5月1日。セナの命日はサイレンススズカの誕生日でもあったのだ。
90年以降の中央競馬の平地重賞で大差がついたレースが2レースだけある。97年のステイヤーズSと98年の金鯱賞だ。ステイヤーズSではメジロブライトが2着馬に1秒8差をつけた。金鯱賞ではサイレンススズカも同じく2着馬に1秒8差をつけて優勝した。ステイヤーズSは坂のある中山競馬場の芝3600㍍で、金鯱賞はまだ坂のなかった平坦の中京競馬場芝2000㍍が舞台だ。より着差がつきにくいのは金鯱賞だ。
サイレンススズカに続いて2着になったミットナイトベットは重賞2連勝中で、この年の暮れに香港に渡り、G2だった香港カップを制することになる強豪だ。弱い相手に圧勝したわけではない。1分57秒8の優勝タイムは従来の記録を0秒4更新するコースレコードでもあった。
3歳時は精神面で幼さを残し、ストレートに実力を発揮できなかったが、暮れに香港遠征した後は心身ともに大きく成長した。4歳になってバレンタインS、中山記念、小倉大賞典、そして金鯱賞と、これで重賞3連勝を含む4連勝と完全に波に乗った。金鯱賞はサイレンススズカが本物になったことを証明するレースだった。
4歳春を締めくくったのはGⅠ宝塚記念だ。距離が2200㍍に延びること、主戦の武豊騎手がエアグルーヴに騎乗するため初コンビの南井克巳騎手にバトンが渡ることなどいくつかの不安はあったが、ステイゴールド以下の追撃を封じ込めて優勝。デビュー14戦目にして、ついにGⅠ勝利を挙げた。
天皇賞・秋に向けた前哨戦は毎日王冠だった。このレースで「夢の対決」が実現した。デビュー以来無傷の5連勝を飾った1歳年下のエルコンドルパサー、これまでデビュー以来4連勝で前年の2歳王者になったグラスワンダーとの3強対決である。エルコンドルパサー、グラスワンダーともに米国生まれの外国産馬。当時のルールで外国産馬は天皇賞に出走することはできず、前哨戦の方がレベルの高いメンバー構成になった。ここでもサイレンススズカは潜在能力の高さを見せつけた。1000㍍通過57秒7というハイペースで逃げ、最後の3ハロンを35秒1でまとめた。必死に追ったエルコンドルパサーが2馬身半差の2着になるのが精いっぱいだった。
誰もがどう勝つのかだけを期待していた運命の天皇賞・秋。軽快に逃げていたサイレンススズカに異変が起きたのは4コーナー手前だった。左前脚の骨折。音速の貴公子はゴールすることなく、そのまま天国へと旅立った。