10月1日は燃える闘魂・アントニオ猪木の命日だ。猪木さんは2022年、79歳で亡くなった。世を去る寸前まで病魔と闘う姿をテレビで公開し、最後までファイトした姿を忘れることはできない。
「KEIBA愛」というコラムなのに、なぜ猪木さんの話を始めたのかといえば、自分が競馬記者となったきっかけには「プロレス」が大きく関わっているからだ。
小学校高学年あたりから、筆者はプロレスに夢中になった。ジャイアント馬場率いる「全日本プロレス」や女子プロレスも見ていたが、断然、心を奪われたのは金曜夜8時のテレ朝、アントニオ猪木率いる新日本プロレスの「ワールドプロレスリング」だった。
ドデカイ外国人レスラーに果敢に戦いを挑む猪木。アリキックやドロップキックで相手のスタミナを削り、ナックルパートを浴びせた後、卍固めで追い詰め、延髄斬りでとどめを刺す。うーん、書いているだけでカタルシスを感じる。
中学に入ると、プロレスにますますハマっていった。通った中学は地下鉄・後楽園駅の隣駅にあり、プロレスの聖地・後楽園ホールに行きやすい環境がばっちり整っていた。
さらに深く興味を抱いたのはプロレスに関する新聞、雑誌だった。「週刊ゴング」「月刊ゴング」「週刊プロレス」などで見るカラー写真には心が躍った。最も熱心に読んだのは「週刊ファイト」。分析系のタブロイド紙で、他紙が書けないプロレスの隠れた部分、闇の部分まで深く突っ込んでいた。これは面白かった。夢中で読んだ。こういう記事を書きたい、新聞記者になりたいという気持ちが芽生えた。
プロレスを大きく扱う夕刊紙も連日、買い求めた。インターネットがなかった当時、前日のプロレスの結果は夕刊紙で確認するしかなかった。で、なけなしの小遣いをはたいて購入した夕刊紙だ。プロレスだけでなくプロ野球、芸能記事も隅から隅まで熟読した。そこで引き込まれたのが競馬面だった。
当時はシンボリルドルフが出現して競馬ブームが起きようとしていた頃。「東西対決」「新星登場」などの見出しにワクワクした。まだ、馬券は買えないので深く入り込むのは控えたが、週末になると笑顔で後楽園の黄色いビルにあるウインズに集まるオヤジさんたちを見て、いつかあの中に入って自分も競馬を楽しもうと思ったものだ。
ということで「新聞記者になりたい」「競馬は面白い」がドッキングして、競馬記者となったのである。だいぶ、かいつまんではいるが、自分の人生は後楽園ホールとウインズを収容する、あの黄色いビルが決定づけたということになる。
今、中央競馬に「イノキ」という馬がいる。馬名の由来は「愛媛県の地名」で実際、松山市に猪木という地名もあるのだが、そこは“あうんの呼吸”。オーナーが意図しているのはアントニオ猪木だと勝手に想像している。オーナーの小菅誠さんは「オオタニ」という誰もがつけたい馬名の馬も所有しているが、同馬の由来は「大きな谷」。これで馬名審査を“突破”したのだろう。「イノキ」も同じと想像する。
入稿のタイミングの都合からイノキの最新の成績には触れられないが、デビューから安定感のあるレースぶりを見せている。この「UMATO」でもおなじみの田中一征厩務員の担当馬コパノアントニオと対決して「アントニオ・イノキ」が実現したらうれしいぞ。その際は2頭に「ボンバイエ!」と声援を送りたい。