有馬記念といえば思い出す大珍事があった。2004年のグランプリ。1番人気ゼンノロブロイがオリビエ・ペリエの手綱に導かれて完勝。同年の天皇賞・秋、ジャパンCに続く“秋GⅠ3連覇”を成し遂げた。
その口取り式でのことだ。藤沢和雄調教師が列の片隅で笑顔を浮かべながら写真に納まっていた。
当時、藤沢和雄厩舎を担当していた筆者にとって、驚天動地の風景だった。
「お馬さんを褒めてほしいから口取りには参加しない。参加する時は自分が納得いく仕事ができた時だ」
この言葉を師から何度聞いたことか。いくらGⅠを勝ってもカリスマ調教師はカメラマンの横や後ろに立って口取りを眺めるばかり。自ら口取りに参加する時など永遠に訪れないものと思っていた。
それが…エーッ!自分が今見た光景が信じられず、思わず他社の番記者に確認したほどだ。「見た?」「見た見た」「いた?」「いた、隅っこにいた」
「初めて口取りに加わりましたね」。思わず師に聞いた。師は照れくさそうに語った。「今までで一番うれしかったからね」
思い当たることがあった。前年の有馬記念。厩舎の先輩シンボリクリスエスが9馬身差の圧勝で引退レースを飾った一戦の直後のこと。シンボリクリスエスとの思い出を語ってもらおうと、筆者は藤沢和雄厩舎の出張馬房を訪ねた。
日がとっぷりと暮れた馬房で、師は1頭の馬にとうとうと語りかけていた。なるほど、長く厩舎をけん引してきたシンボリクリスエスに感謝の言葉をかけているのだろう。いや…違う。馬房が違う。語りかけている相手は3歳馬ゼンノロブロイだった。この有馬記念で3番人気3着。次代のエースと目される期待馬だった。
頃合いを見計らって師に声をかけた。
「ナイスレースでした」
「そうか?俺はショックだったよ」
言葉の意味を理解するのに時間がかかった。筆者はシンボリクリスエスのことを言ったのだが、師の頭の中はゼンノロブロイのことでいっぱいのようだった。
「最後にリンカーン(2着)にかわされちゃった。こんなレースぶりではシンボリクリスエスを牧場から戻さなきゃいけなくなる。鍛え直しだな。おい、ロブロイさんよ、聞いているか?」
筆者はそこからも何とかシンボリクリスエスとの思い出を語ってもらおうとアタックしたが無駄だった。言葉にするのはゼンノロブロイのことばかり。シンボリクリスエスの話は一切出てこなかった。
1年が経過して、いろいろ腑に落ちた。シンボリクリスエスは天賦の才に恵まれ、藤沢和雄調教師にとってはコンディションを調整しておけば勝ってくれる馬だった。
だが、ゼンノロブロイはそうではない。ポテンシャルは高いが、それを発揮させるのに、いろいろ工夫や努力が必要だった。押したり引いたり、追い込んだりリラックスさせたり…。辛抱強く鍛えた成果が秋のGⅠ3連勝となって結実したのだ。
的確なコーチングによって、ついに咲いた大輪の花。「今までで一番うれしかった」の意味がよく分かった。
競馬に革命を起こしたカリスマ調教師が“納得いく仕事ができた”と自負した瞬間を目撃した。筆者にとって、あの口取りを見ることができたことは素晴らしい財産となった。