
サクラホクトオーを取り上げた前回に続き、思い出のアメリカジョッキークラブカップを紹介したい。93年優勝馬ホワイトストーンである。
この馬、今の時代にいたら、“推し”のファンがかなりいたであろうという馬だ。この馬の歩んだ道のりはなかなかドラマチックだ。
関東の名門、高松邦男厩舎からデビュー。当時、岡部幸雄騎手と並ぶ名手で、高松厩舎のエースである柴田政人騎手を背に未勝利戦快勝、京成杯2着。順調に賞金を積み上げ、90年ダービーへと歩を進めた。
ここでホワイトストーン、第一の悲劇が起こる。当時、素質馬の宝庫だった高松厩舎。柴田政人騎手はダービーでの騎乗馬にお手馬のホワイトストーンでなく、厩舎の僚馬ビッグマウスを選ぶのである。
ビッグマウスは直前の青葉賞(当時オープン)を勝った、いわば新星。あわれ、ダービーまでに柴田政人騎手と6戦連続でコンビを組んだホワイトストーンは大一番でフラれ、厩舎のセカンドジョッキーである田面木博公(たもぎ・ひろまさ)騎手に乗り代わるのだ。
結果は…。ホワイトストーンは12番人気ながら最後の直線でメジロライアン(2着)とともに追い込み、見事3着。ビッグマウスは見せ場なく12着に敗れ、この一戦を最後にターフを去った。筆者はダービーを東京競馬場でナマ観戦し、「ナカノコール」をしながらも、ホワイトストーンが背水の陣で見せたド根性に胸を震わせていた。
秋、ホワイトストーンの鞍上には柴田政人騎手がカムバック。セントライト記念を4馬身差で圧勝し、勇躍、菊花賞へと向かった。ダービー馬アイネスフウジンは屈腱炎を発症してすでに引退。菊花賞はホワイトストーンにとって大チャンスだった。当日は2番人気。メジロライアン(1番人気)さえ負かせば…。結果、メジロライアン(3着)には先着したが、メジロマックイーン(4番人気)の前に完敗の2着。またしてもGⅠの女神はホワイトストーンにほほ笑まなかった。
それでもめげない。続くジャパンCでは日本馬最先着の4着。直前の天皇賞・秋を制したヤエノムテキ(6着)、怪物オグリキャップ(11着)に先着した。
これで実力を再評価されたホワイトストーンは、90年を締めくくる有馬記念で何と1番人気に推される。結果はもうお分かりだろう。痛恨の3着。まるで自分が1番人気であることを分かっているかのように、ホワイトストーンは勝ちたい気持ちを抑えられずに引っ掛かった。「オグリコール」を聞きながら検量室前へと引き揚げるその姿には哀愁が漂っていた。
いかん、何かきっかけが必要だ。陣営はダービー3着の立役者である田面木騎手に白羽の矢を立てた。5戦ぶりにコンビを組み、91年初戦の大阪杯(当時GⅡ)を1番人気で快勝。「おおっ、今年のホワイトストーンは違うぞ」。ウインズ後楽園のオヤジたちはつぶやいたが、そうは甘くない。天皇賞・春は3番人気に推されたが本格化したメジロマックイーンの前に6着完敗。翌92年には柴田政人騎手が鞍上に戻ったが、覇気のないレースを繰り返し、黒星を重ねた。
そして92年11月。競馬ファンに衝撃が走る。ホワイトストーンが福島記念に出るというのだ。田面木騎手を背にハンデ59.5キロ。福島競馬のファンには申し訳ないが、「ホワイトストーンがプライドを捨てて勝ちに来た」というムードが漂った。ファンも1番人気に推して応援した。
結果は…。言うまでもない。中団追走から直線で伸びず9着。勝つべき一戦で失速する。いつものホワイトストーンだった。ここでホワイトストーンを見限った人は多いのではないだろうか。
有馬記念10着を挟み、いよいよ迎えた93年アメリカジョッキークラブカップ。すでに見限られたホワイトストーンは9頭立ての6番人気。ここでホワイトストーンはキャリアで初めて逃げの手に出るのである。
「もう終わった馬」と判断したのか、他馬はちょっかいを出さずマイペースを刻む。そして直前の有馬記念で2着だったレガシーワールドに2馬身半差をつけて逃げ切るのである。鞍上は柴田政人。91年大阪杯以来、実に665日ぶりの白星だった。
こうして書いていると、ホワイトストーンの走りに一喜一憂した日々がよみがえる。ウインズ後楽園でがっかりし、呆然としながら丸ノ内線に乗ったことは数え切れない。だが、今思えば、それもホワイトストーンがくれた“いい時間”だった。GⅠは勝てなかったが、競馬ブームを盛り上げた1頭であったことに疑いはない。