92年ダイヤモンドSと聞いて、その意味をパッと言える方は文句なしのベテラン競馬ファン。1着ミスターシクレノン、2着アローガンテ、3着ロングシンホニー。小林稔厩舎、ワンツースリーの大快挙となった一戦だ。
重賞における3着までの独占は1969年(昭44)の弥生賞における尾形藤吉厩舎(1着ワイルドモア、2着ミノル、3着メジロアサマ)以来、23年ぶり4度目。いわゆる(ハクエイホウを入れて)「尾形四天王」の世代だ。

ただ、隆盛を誇った当時の尾形厩舎と、トレセンのオープンによって馬房数が限定されるようになった小林稔厩舎の頃とでは、その快挙具合もまた趣が異なるというもの。とにかく空前絶後の大記録といっていいだろう。
小林稔厩舎は、この3頭のみの出走。最も人気がなかった(6番人気)ミスターシクレノンが勝ったあたりも、また趣深い。4角ひとまくりの7歳馬(現在の数え方に換算)が後輩の僚馬2頭を従え、3馬身半も突き抜けた。小林稔師の機嫌が悪かろうはずがない。「もう気分は最高だね。3頭とも坂路でいじめ抜いた自慢の長距離砲。東京の坂でバテるわけないよ」
ミスターシクレノンは決して“予定通り”の東上ではなかった。前週の日経新春杯で6着。「馬混みの中でレースが終わってしまった。力を出し切っていないので疲れはなさそうだ」。レース後、小林稔師はそう判断すると、急いで翌週のダイヤモンドSに特別登録。その時、締め切りまで30分を切っていたという。
急きょの連闘とあって騎手も決まっていない状況だったが、出馬投票当日に柴田善臣を確保。同騎手は前日にミスターシクレノンの弟ミスタートウジン(福島信晴厩舎)で銀嶺Sを勝っており、この兄弟とは縁があった。
「59キロのトップハンデで瞬発力勝負になっては分が悪い。だから3コーナーから早めに動いたが大正解だった」(柴田善)。前日に弟にまたがり、イメージも湧きやすかっただろう。全てがミスターシクレノンにとって、いい方に向いた。
そして、重賞ワンツースリーで満足しないのが小林稔師。ひと通りのインタビューが終わった後、記者にこう宣言した。「あのな、惜敗した馬はこのまま東京に置いて、連闘で勝たせるから」
言葉通り、新馬戦6着だったシクレノンブリットを連闘(中4日!)で折り返しの新馬戦に使って1着。同様に新馬戦2着のアジルも連闘・折り返しの新馬戦で1着。この年の1回東京開催は小林稔厩舎の独壇場となった。
異能の人・小林稔師はその後、96年にフサイチコンコルドで念願の日本ダービーを手にする。わずかキャリア3戦目、熱発によるプリンシパルS回避明けでの戴冠。小林稔師でなければ不可能なミッションだったことは間違いない。