前回の当欄で三浦皇成騎手の初重賞制覇(08年函館2歳S=フィフスペトル)について記した。
筆者は当時、スポニチにて三浦騎手の特集連載なども担当した。取材ノートが手元に残っている今のうちに、三浦騎手が持つ凄みについて改めて書き記しておきたい。将来、息子や娘を騎手にしたい親御さんには非常に参考になるのではないか。

三浦騎手は東京の、競馬とは無関係の家に生まれた。運命が決まったのは5歳の時。父が大井競馬場に連れて行き、騎手の格好をしてポニーに乗るイベントに参加した。まだ小学校に入る前だったが、ここで早くも人生の決断をする。
「僕は騎手になる」
そこから18歳でデビューするまでの13年間、全ての時間を“騎手になるため”の時間として過ごした。
目が悪くなるからとテレビゲームには一切、手を触れなかった。毎日、近所をランニング。雨の日も決して休まなかった。小学校に入ると勝負勘を養うために剣道を始めた。
三浦騎手が通った「泉新剣友会」は独特の厳しい指導で評判だった。技術、年齢が上の選手と稽古をさせ、精神的に追い込まれたところから何かをつかむ。それが真の強さにつながるという育成方針だった。
体の小さかった三浦少年は何度も転がされた。だが、そのたびに鬼の形相で立ち上がったという。あっという間に全国大会の常連となり、小さい体でファイトむき出しに立ち向かっていく戦いぶりは広く知られるところとなった。口癖は「優勝するんだ」。そう言って仲間を鼓舞した。
だが、これで満足しないのが三浦少年。器械体操、トランポリンの教室にも通った。勉強もおろそかにしない。成績は上位クラスをキープし、中学校では生徒会副会長まで務めた。先生からの信頼は非常に厚かった。
小5になり、満を持して乗馬スクールへと通い始めた。すぐに頭角を現し、3年後には全日本ジュニア馬場馬術大会でファイナル進出。全国でも指折りのジュニアとなった。
当時の教官が話してくれた。練習後、仲間たちはホッとしてお菓子をワイワイと頬張るのだが、三浦少年だけは自らスーパーで買ってきたキャベツをキッチンで茹でて、食べていたのだという。体重を増やさないためだが、本人に悲壮感はなく、むしろ楽しそうに調理していた。その様子が忘れられないと語っていた。
何というか、その様子はクッキリと目に浮かぶ。そして、その光景こそが三浦騎手の本質を表しているような気がしてならない。人と違うことを笑顔で、自然とできる。自分のためなら苦にならないのだ。
競馬学校合格後も自分の道をまい進した。たまの休日。ほかの生徒が東京へと出かけて息抜きする中、三浦騎手はかつて通った乗馬スクールへと足を運んだ。以前に世話をした相棒と旧交を温め、馬にも乗った。これも三浦騎手らしい。ライバルを出し抜こうとか、そういう気持ちではない。馬や、かつての仲間といることが楽しいのだ。そして、そのことを自然と行動に移せるのが三浦騎手なのだ。
筆者が初めて三浦皇成という存在を知るのはこの頃だ。当時「学校へ行こう!」というバラエティー番組があり、アイドルのV6がさまざまな学校を訪ねて生徒と交流していた。そして、競馬学校を訪ねる回があった。
伊藤工真、大江原圭騎手候補生に緊張の色が見られる中、三浦騎手候補生の堂々たる振る舞いに目を奪われた。冗談まで言っていたように記憶する。あまりの衝撃に、まだデビューもしていないのに、スポニチのコラムにて「三浦候補生に大物の予感」と記したほどだった。
JRA関係者に聞くと「彼は競馬学校創設以来の逸材ですよ」というではないか。今思えば、納得のいく評価だ。
ルーキーイヤー。三浦騎手は91勝を挙げ、それまで武豊騎手が保持していた新人最多勝利記録「69勝」を軽々と塗り替えた。その後は大きなケガにも見舞われたが、今も第一線で活躍を続けているのは、さすがというしかない。
三浦騎手が歩んだ道を知った上で、では筆者が5歳に戻ったとして、三浦騎手と同じ道を歩めるか。とても無理だ。あそこまで自分を律することはとてもできない。だが、三浦騎手に「自分を律している」という気持ちはサラサラない。そこが非凡なのだ。気がつけば三浦騎手も35歳だが、筆者はまだまだ活躍し続けることを期待している。