前回の当コラムでトゥザヴィクトリーを取り上げた。池江泰郎調教師(定年引退)が辛抱の末に開花させた馬だ。同馬のみならず、ディープインパクト、メジロマックイーンなど日本競馬史上にさん然と輝く馬を何頭も管理した名指揮官のことも、ここに記しておきたい。
ディープインパクトの番記者を務めた頃、池江さんには本当にお世話になった。ライバル社と合わせ、ディープインパクトを連日、追いかける記者の数は両手でも足りないほどだったが、池江さんが嫌な顔を見せたことは、たったの一度もなかった。ありがたいこと、この上ない。
池江さんにとって、人生の中で最も多忙だったであろう時期。それでも空いた時間を見つけると自分たち番記者に、人生訓や、歩んできた人生で得たものなどを伝えてくれた。

池江さんは宮崎県高城町(現都城市)の生まれ。競馬とは無関係の家に育った。
中学時代のある日、学校で生徒を集め、映画が上映された。「幻の馬」。1955年、大映が制作したカラー映画。10戦10勝でダービーを制しながら、その2週間後に急死したトキノミノルを題材としていた。池江少年は心を強く揺さぶられた。
「自分も騎手になれないだろうか」。漠然と思い始めたところ、中学の教頭がアシストしてくれた。「池江君にぴったりの仕事だよ。試験があるから受けてみたらいい」。宮崎市出身で宮崎競馬に詳しい方だった。宮崎競馬場での騎手養成所入所試験に臨み、見事合格した。
中学時代は器械体操部に入り、鉄棒を得意としていた池江少年。そこの顧問が前述の教頭で、その恩師からも「君なら大丈夫、いい騎手になれる」とお墨付きをもらっていた。自信を胸に東京へと向かい、入所した。
ところが、だ。同期は乗馬経験者ばかりの中、馬にさわったことすらなかった池江候補生は、あっという間に落ちこぼれとなった。
器械体操の経験で体を動かすことには自信があったが馬はうまく動いてくれない。悩みに悩んで教官に聞いた。「先生。僕、大丈夫ですか?本当に騎手になれますか?」
教官の答えはシンプルだった。経験のある者に追いつくためには経験を積むしかない。馬に乗り続けるしかないんだ。
池江候補生は、そこから人一倍の努力を重ねた。落ちても落ちても、馬に乗り続けた。同期も温かく見守ってくれたという。「一人前の騎手になるまで戻らない」と母に誓って東京に向かった。宮崎に戻る気持ちはなかったが、ここで競馬から離れていたら、のちのメジロマックイーンもディープインパクトもいなかった。そう思うと背筋が寒くなる。池江少年、よくぞ踏ん張った(笑)。
思い通りにならない馬の背に必死にしがみ続けた池江候補生。全課程を修了し、いよいよ騎手養成所を卒業する日が来た。
家族、関係者、来賓にお披露目する騎乗供覧。教官は池江候補生に養成所で最も乗り難しい馬への騎乗を命じた。同期は驚いた。だが、池江候補生は教官の真意を分かっていた。「お前はもう大丈夫。自信を持って競馬場へ行け。そうおっしゃっているのだと僕は思いました」。もちろん、その癖馬をしっかりと乗りこなした。
「あの日のことは、ものすごく自信になった。その自信を胸に、騎手、調教師としてやってきたようなものだ。今も昨日のことのように思い出せるよ」。番記者たちはグッと来た。池江泰郎調教師の目にも涙が浮かんでいた。
ディープインパクトの番記者は、すなわち池江泰郎調教師の番記者でもあった。そして、そのことが自分の人生観、考え方にも大きく影響を与えてくれた。記者として、これ以上の幸せがあるのかと今、思う。