今週は菊花賞。思い出に残る馬と人を取り上げたい。09年優勝馬スリーロールス。そして同馬の調教を担当していた杉山晴紀調教助手である。
この人の名を聞いてピンと来た方は、さすがである。今や、毎年のようにリーディング争いを繰り広げる、杉山晴紀師のことだ。

のちに調教師としてデアリングタクトで無敗の牝馬3冠を達成する気鋭の伯楽のもとを筆者が初めて訪ねたのは09年10月20日。菊花賞ウイークの火曜日だった。
直前の野分特別を4馬身差つけて圧勝し、菊花賞へは「7分の6」の抽選待ちだったスリーロールス。武宏平厩舎(解散)は、北海道では取材経験があるが栗東では初めてだった。
少し緊張感を持ちながら馬房をのぞくと、精かんな表情の若いイケメンが「こんにちは」とあいさつしてくれた。東京の記者だと自己紹介すると「僕も生まれは関東です。神奈川県です」と返してくれて空気が一気に和んだ。当時27歳の杉山助手だった。
この短い会話だけで、筆者は杉山助手が、ただ者ではないと感じた。この助手のことを深く知っておくべきだと直感、馬のことより先に杉山助手自身について質問攻めにした。
生まれは藤沢市。中学生の時に競馬ブームが訪れ、杉山少年もクラスの友人とともに競馬を見るようになったという。
心に刺さったレースがあった。96年菊花賞。勝ったのはダンスインザダーク。馬群から矢のように伸び、ダービー2着の雪辱を果たして、最後の1冠を手に入れた。
「凄い」。杉山少年は文字通り、心も体も震えた。そして、競馬を一生の仕事とすることを決めた。
この時、中3。身長が高く、騎手は無理かと考えた。調べてみると、毎日、トレセンで馬に乗って競走馬を鍛える仕事があるようだ。これだろう。中学の卒業アルバムに「将来の夢・トレセンの調教助手」と書いた。担任もクラスメートも、さぞびっくりしただろう。
その後、地元の高校に通いながら乗馬クラブで腕を磨き、高校卒業後は石川県の小松温泉牧場へ。4年間、放牧にやってくる現役競走馬の背中を味わうなど貴重な経験を積み、栗東の武宏平厩舎へと入った。04年7月のことだった。
冒頭で「ただ者ではない」と書いた。同じことを武宏平調教師も感じたようだ。厩舎で最も若い杉山助手を師は時を置くことなく、厩舎の番頭へと抜てきするのだ。
番頭、つまり調教助手の筆頭格の業務は実に多岐にわたる。連日、どの馬に調教で誰が乗るかを決め、追い切り日は併せ馬の組み合わせも考える。馬の特徴を考慮しながらレースで乗る騎手を選択することもある。レースの日は調教師が行けない競馬場へと足を運んで臨場する。これらを網羅しながら、毎日、馬に乗って、厩舎の馬を仕上げていくのである。
そう、業務内容は“ほとんど調教師”。このハードな、そしてホースマンの本質といえる業務を20代前半で経験できたことは杉山氏にとって大きかっただろう。
そんな、若くしてハードな業務と格闘していた杉山助手の前に運命の馬が現れる。自分をこの道へといざなってくれたダンスインザダークの子、スリーロールスだった。
「トモは甘いが素質は高い。パンとしてくれば相当にやれるんじゃないか」。当時26歳。若き番頭は全身に力がみなぎるのを感じていた。スリーロールスとの奮闘は次回に。