ダイナアクトレスという馬を知っている競馬ファンはもう少なくなっているのだろうか。
今でこそ牡馬相手に互角以上に戦う牝馬はレガレイラを筆頭に何頭もいるが、筆者が競馬に興味を持ち始めた頃は、そう何頭もいたわけではなかった。数少ない代表格がダイナアクトレスだった。
牝馬同士のレースでは、なぜか伸びてこないが、牡馬相手になると、めっぽう走る。4歳時は京王杯(現京成杯)オータムハンデ、毎日王冠を連勝。距離が長いと思われたジャパンカップに勇躍、参戦し、日本馬最先着の3着(1着ルグロリュー)。このジャパンカップは本当にしびれた。
管理したのは矢野進調教師。当時、社台ファームの一番馬といえば、矢野進師が管理するのが当たり前だった。

筆者が記者となり、美浦トレセンに出入りできるようになって、まず向かったのは矢野進師のところだった。弟子である蛯名正義騎手(現調教師)の話で盛り上がりつつ、ダイナアクトレスの話を振ると、師の表情が変わった。
「アクトレスは、それはそれは凄い馬だった。僕はアクトレスの子孫たちが日本の競馬を引っ張っていくような時代が来なければいけないと思っているんだ」
すでに産駒のステージチャンプ、プライムステージは重賞を制していたが「こんなもんじゃない。孫やひ孫の代になって、もっと花が咲くはずだ」
幸い、筆者は“花が咲く”瞬間を見届けることができた。ステージチャンプ、プライムステージに続く3番子のランニングヒロインが牧場に戻り、グラスワンダーをつけて生まれたスクリーンヒーロー。残念ながら矢野進師は定年引退し、気鋭の鹿戸雄一厩舎に移っての国際GⅠ制覇となったが、ダイナアクトレスが銅メダルに終わった悔しさを孫が晴らした瞬間だった。
ジャパンカップ優勝後、寺本秀雄厩務員とじっくり話した。同厩務員は矢野進厩舎からそのまま鹿戸雄一厩舎に移り、継続してスクリーンヒーローを担当していた。
「このジャパンカップ制覇は矢野先生の英断があったからこそなんだよ」
スクリーンヒーロー、3歳秋。セントライト記念で3着に入り、菊花賞の優先出走権を得た。だが、左前脚、膝の剥離骨折が判明する。

獣医によれば「ごまかしつつ、うまくやれば出走は可能」とのこと。矢野進師にとっては定年前のラストクラシック。「先生、菊に行きましょう」という声が周囲から上がった。だが、師は首を横に振った。「この馬には将来がある。ここで無理させるわけにはいかない」
あそこで馬に負担をかけていたら、のちのジャパンカップ制覇もなかったと寺本厩務員は述懐した。
種牡馬入りしたスクリーンヒーローは初年度産駒からモーリス(GⅠ6勝)、ゴールドアクター(有馬記念)を出し、華々しくデビューを飾る。
その後もウインマリリン(香港ヴァーズ)、ウインカーネリアン(スプリンターズS)などが奮闘。父モーリスからはすでにジャックドール(大阪杯)、ジェラルディーナ(エリザベス女王杯)が出た。
「ダイナアクトレスの子孫が日本競馬をけん引する」。矢野進師の思いは現実となったのである。






