(茨城県笠間市)毎年11月3日
稲荷の大神様に縁の深い農作物の豊凶を占う神事
笠間稲荷神社の御祭神、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)は生命の根源を司る「いのち」の根の神として農業、工業、商業、水産業など、あらゆる殖産興業の守護神として、人々の生活すべてに御神徳を授けて下さる神さまです。
笠間稲荷神社の御創建は、社伝によれば第36代孝徳天皇の御代、白雉2年(651年)と伝えられています。
その後、長い年月を経て、桜町天皇の御代、寛保3年(1743年)には時の笠間城主・井上正賢により社地社殿が拡張され、また延享4年(1747年)牧野貞通が城主となるや、先例により祈願所と定められ、境内地・祭器具等が寄進されました。以来歴代藩主の篤い尊崇を受けました。
現代では、笠間稲荷神社は日本三大稲荷のひとつとして広く人々に親しまれ、霊験あらたかな御神徳を慕って多くの参拝者が全国より訪れています。
笠間稲荷神社の神事流鏑馬は、稲荷の大神様に縁の深い農作物の豊凶を占うとともに、日本の伝統文化で現存する二大流派の一つである弓馬術礼法宗家、小笠原流の古義古術を保存するために行われています。
鶴岡八幡宮・日光東照宮と並ぶ、関東三大流鏑馬のひとつに数えられるもので、昭和25年11月3日の文化の日に第一回目が行われ、以後笠間稲荷神社の菊祭りの最盛期でもある11月3日を恒例日として行われるようになり、毎年約2万人の観客でにぎわっています。
当日は、鎌倉時代の流鏑馬装束に威儀を正した小笠原流一門の射手及び氏子有志、古武道振興会の人々など総勢40余名が、拝殿前で、神事流鏑馬が滞りなく執り行われるように祈願した後、笠間小学校前(笠間藩弓馬訓練場跡)の全長260mにわたる道路に幅2m・厚さ20cmの砂を敷き詰めた特設馬場までの約700mを、古式にのっとり列を組んで進んで行きます。
馬場では、3ヶ所(一の的:馬場元より30m、二の的:一の的より75m、三の的:二の的より75m)に設けられた、高さ2mの的に、射手が馬を走らせながら約20秒間に3本の鏑矢を射て、馬場中央にいる奉行所の日記役が、その命中度を記録し、的の割れ方によって来年の豊凶を占います。
笠間稲荷神社
茨城県笠間市笠間1番地
アクセス
車◉(東京方面)常磐自動車道→北関東自動車道友部IC下車、国道355号経由約15分。
(東北方面)いわき方面から常磐自動車道→水戸IC下車、国道50号線経由約20分。
電車◉JR水戸線笠間駅下車、徒歩約20分またはタクシーで約5分
笠間稲荷神社の起源
笠間稲荷神社のご祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)で、正一位という最高の位をもつ神様です。日本三大稲荷のひとつである笠間稲荷神社の御創建は、社伝によれば第36代孝徳天皇の御代、白雉(はくち)2年(651年)とされ、1370年以上の歴史を有する由緒ある神社です。
食物の神さま、農業の神さまとして崇敬されていました笠間稲荷大神さまは、商工業が盛んになるにつれて殖産興業の神さまとしての信仰も広まり、近世になると農家ばかりでなく商家、町屋、武士、大名にいたるまで御分霊をいただき、屋敷神や家庭神、地域神としてお祀りされるようになりました。
とりわけ江戸時代には歴代笠間藩主の崇敬が篤く、初代藩主の松平康重公は丹波篠山に移ってからも笠間稲荷大神さまの御分霊をお迎えし、それが今の王子山稲荷となっています。第三代藩主の松平(戸田)康長公は信濃国松本へ転封した際に城内に御分霊をお祀りし、末永く崇敬しました。
今日では関東はもとより、全国から年間350万余の人々が参拝に訪れています。
取材後記…
「お稲荷さん」と言えばキツネをイメージしますが、キツネはあくまで稲荷大神のお使いで、神さまそのものではなく「神使(かみのつかい)」「眷属(けんぞく)」と呼ばれる霊獣であるそうです。中世の時代、人間が持っている様々な欲望を直接神さまに祈願するのは畏れ多いとして、特別に選ばれた動物を通してお願いしていた、ということを知りました。文/邦馬
取材協力・文章/写真提供
笠間稲荷神社
http://www.kasama.or.jp/
0296-73-0001
笠間市広報戦略室 Instagram『kasama_city』
https://www.instagram.com/kasama_city