僕が札幌競馬場を語るにあたっては、やはり自身の担当馬の成績に触れなければいけないだろう。
僕は厩務員が担当馬で大レースに勝つというのは全て運だと思っている。この話は後にゆっくり寄稿させていただくが、特に札幌での成績が良かったのも調教師、オーナー、生産牧場、騎手、調教助手のおかげであり、厩務員の力など1ミリもない。
札幌競馬場で体験した、たくさんの喜びや感動にただただ感謝している。
札幌で初めてオープン特別と、函館競馬場が馬場改修していた時、札幌で行われた函館記念を勝ったワコーチカコ。
新馬戦勝利から札幌記念の連覇も達成したエアグルーヴ。
その有り余る能力のせいで狂気の走りになっていたが、札幌記念で復活したファインモーション。
これらの馬達の裏話などは追々個別に寄稿させていただこうと思っているので、ここでは省かせていただく。
伊藤雄二厩舎でこの3頭が札幌で活躍した10年くらいの間は、ほとんど同じD厩舎地区に滞在していた。函館からの直前輸送でレースだけをしに来た事も多かったが、その際の特別馬房も自厩舎の隣だった。
夏のローカル競馬場の滞在厩舎の位置の配分は誰がどのように決めるのかよく分かっていないが、調教師や厩舎従業員がJRAに毎年マメに要望を出すと希望した地区に配分されるようだ。
伊藤雄二先生はスタンドや装鞍所、馬診療所が近いのでD地区が気に入っていたのだと思う。短期特別馬房はできるだけ自厩舎の近くに配分してくれるので、このC-1厩舎に入る機会が多かったのだろう。
このC-1厩舎にはエアグルーヴやファインモーションをはじめとする僕の担当馬が、函館からの短期特別馬房として入厩した。
よく日曜日の最終レース終了後に正式な手続きをふんで、友人達がC-1厩舎に遊びに来てくれた。
その中の一人に当時中学生だった三浦利貴(としき)という男の子がいた。僕の札幌の友人の親戚だった彼は競馬と馬が大好きで「将来馬の仕事がしたい!」といつも言っていた。もちろん僕にできる口利きは何でもしようと思っていたが、体が大きくなり当時の競馬学校の体重制限ではとても無理という事で断念。
成人してサラリーマンになった利貴だったが、仕事中の車の事故で二十代半ばの若さでこの世を去った。
今でもこのC-1厩舎の前を通ると、利貴が「田中はーん!」と言って遊びに来てくれた時の事を思い出し、涙が浮かぶ…。
そんな僕の札幌競馬場での最後のレースは8/31(土)5R新馬戦で何と1着!
競馬の神様(北海道支部)が最後ということで勝たせてくれたのだろうか…? 梅田智之調教師からも「田中さんおめでとう、持ってるなぁー」という言葉をいただいた。
この日も多くの友人が競馬場に来てくれていて、一緒にお祝いしてくれた。僕が「持っている」のは運だけではなく、素晴らしい友人や仲間たちもだ。
札幌シリーズはNHK朝ドラ「虎と翼」の主題歌(米津玄師)で締めさせていただく。
「さよーならまたいつか!」