馬シリーズに続いて、新しく競馬に関わる人の話を今回から書かせていただく。もちろん実話だが、僕の独断と偏見が少しは含まれるのをご了承いただきたい。
馬に携わっている人の中で、僕の大好きな人、尊敬できる人などを不定期に紹介していこうと思うが、その人の実績など表向きの事はほどほどに、あまり知られていない出来事や人柄などを中心にお話していきたい。
第1回目は僕の恩師である「伊藤雄二調教師」。
「感謝」の言葉しかない、僕の唯一の師匠と呼べる人だ。
1983年1月初旬、競馬学校を卒業した僕は栗東トレーニングセンター伊藤雄二厩舎に配属された。
現在、新規で入る人達は馬の扱いのプロばかりで、新しく厩舎へ来ても即戦力となり本当に頼もしい。だが当時の僕の馬経験はほぼ競馬学校の3ヶ月のみで、素人に毛の生えた程度だった。
厩舎の先輩達も、初めて競馬学校という得体の知れない所から来たド素人の僕を、腫れ物に触るかのように接してきた。すると伊藤先生が厩舎の全員を集め、「田中はまだ何もでけへんねんから、皆ちゃんと面倒みたれよ!」と笑顔で言ってくれた。
そのおかげもあって、徐々に厩舎の一員として認めてもらえるようになった。
後から聞いた話だが、伊藤先生は新設された競馬学校にわざわざ出向き、人材を探していたそうだ。大学の馬術部出身もいたのに、何故僕が選ばれたのか不思議だったが、少ししてその意味が分かった。
当時の栗東トレセンでかなり大きなイベントだった「厩舎対抗運動会」(現在は廃止)。その運動会で伊藤雄二厩舎は毎年そこそこの成績ではあったが、上位には入れなかったそうだ。馬乗りは足りているので運動会要因と、うるさい馬用の屈強な厩務員を探していたらしいのだ。
僕が入ってからの運動会は3位→準優勝となり、いよいよ念願の優勝が期待された。しかしその3年目、僕が運動会の自主練習で捻挫をして走れなくなってしまった。伊藤先生は僕に「何や田中、おまえは運動会の為に入れたのに!走れへんのならいらんな」と言いニヤっと笑った。
あの時の先生のイジり笑顔は一生忘れない…
ただその後の厩舎対抗野球大会は優勝して、なんとか面目を保った。
メディアやファンには穏やかで、従業員には厳しいイメージの伊藤先生だったが、オンとオフがはっきりしていて、仕事が終われば「全力で遊べ!」という考え。栗東でも出張先でもよく皆を集めて食事会を開き、常に僕らをイジって笑いを取っていた。
僕がロッキーのメンコ(アメリカ国旗)を作ったり、鯉のぼりのメンコを作っても、いつも笑って許してくれた。本当に洒落好きで、楽しい事が大好きな先生だったのだ。
そして伊藤先生の一番好きなところは、競馬ファンをとても大切にしていた…僕も競馬ファン出身だからだ。
昭和の時代は心の狭い調教師もかなりいて、一般のファンを厩舎に入れるなどは論外で、記者やメディア関係者も厩舎構内には入れず、ロープを張って外部からの人をシャットアウトしていた。
そんな調教師の元で働いている友人が、正式な手続きをふんで友達を厩舎に入れたのに、それが原因で干されて(パワハラ?)、厩舎を辞めたという話も聞いた。
しかし伊藤先生は、僕がファンの友人を連れて厩舎を案内していると、笑顔で「いらっしゃい!」と向こうから挨拶してこられた。先生の気さくな態度に、友人がびっくりしていたくらいだ。
よく先生はメディアに「馬券を買ってくれるファンに貢献する為にも、連対率にはこだわりたい」と言っていたが、ファンを愛する姿勢は生涯変わることは無かった。
伊藤雄二先生の馬に対しての話は次回で!