97年朝日杯3歳S(当時)、98年有馬記念、99年宝塚記念、有馬記念とGⅠを4勝したグラスワンダー(牡、父シルヴァーホーク)が8月8日、高齢に伴う体力低下から多臓器不全を発症し、息を引き取った。30歳だった。
96年に競馬担当記者となった筆者。グラスワンダーが快進撃を重ねた頃は、まだ駆け出しだったが、だからこそ、のちの記者人生の役に立つ多くのことを学ばせてもらった。

特に、引退までの15戦中14戦の手綱を取った的場均騎手(現調教師)にはグラスワンダーを通して“騎手とはどういうものか”を教えていただいた。
当時、的場騎手はスポニチにて「いぶし銀」というコラムを掲載していた。その関係で弊紙とは懇意にしていただいた。こちらもつい甘えてしまい、初歩的な質問をいくつもしたが、的場騎手は嫌な顔をせず、柔和な笑みを浮かべて答えてくれた。
グラスワンダーと的場騎手といえば、エルコンドルパサーとの“究極の選択”を真っ先に思い出す。
朝日杯3歳ステークスまで無傷の4連勝を決めた後、右後肢の骨折で春を全休し、毎日王冠での復帰が決まったグラスワンダー。
一方、的場騎手はエルコンドルパサーともコンビを組み、NHKマイルCまで土つかずの5連勝を果たしていた。秋は毎日王冠で始動するという。
的場騎手が騎乗できるのは当然ながら、どちらか1頭だ。体が2つ欲しいと本気で考え、悩みながら、的場騎手が出した結論は「グラスワンダーに乗ります」。エルコンドルパサーは蛯名正義騎手(現調教師)が乗ることとなった。
自分が敏腕ライターであれば、ここで当時の裏話でも披露するところだが、残念ながら自分は駆け出しの凡庸な記者。「なるほど、グラスワンダーか。先にコンビを組んだ方に恩義があるということかな」などと脳天気に受け止めるだけだった。
今なら「すぐ的場さんのところへ行って、真意を聞いてこいよ。どれだけ悩んだか、聞き出してこいよ」と言うところだ。可能なら、当時に戻って自分の尻を叩いてやりたい。だが…当時の筆者は裏話を聞き出す能力を持ち合わせていなかった。
話がそれた。その的場騎手に“選ばれた”グラスワンダーだが、毎日王冠ではケガ明けの影響を隠せず5着に敗れた。続くアルゼンチン共和国杯も6着に終わった。
一方でエルコンドルパサーは蛯名騎手を背にジャパンCを快勝した。日本調教馬による3歳馬のジャパンC制覇は初めてだった。「的場さん、選択を間違えたかな?」。凡庸記者はそんなことを思っていた。今思えば、全くのとんちんかんである。

迎えた有馬記念。休み明けを2度敗れ、もう後がないグラスワンダー。追い切りで的場騎手は目いっぱいに追った。6ハロン77秒台、5ハロンは62秒台。調教としては究極のレベルだ。「体に少し余裕があるので目いっぱい追った」。まさに闘魂注入。だが、2度の完敗で優勝候補から外れたグラスワンダー。セイウンスカイ、エアグルーヴ、メジロブライトに比べ、紙面で与えられたスペースははるかに小さかった。
レースの結果は言うまでもないだろう。4コーナーで4番手の外に取り付いたグラスワンダーはド迫力の脚さばきを見せ、逃げたセイウンスカイを力強く捉えると、外から迫ったメジロブライトを半馬身、抑え込んだ。「誰が何と言おうと本当に強い馬なんですよ」。的場騎手が弊紙の番記者にそう話すのを横で聞き、体が震えた。
尾形充弘調教師(引退)の言葉にもグッと来た。「グラスワンダーも凄いが、グラスだけじゃない。的場にプロとしての意地を見た」。騎手に対する、これ以上の褒め言葉があるだろうか。2頭の選択で自らチョイスし、2度敗れても諦めることなく、大一番で自らの選択の正しさを証明した。まさに意地だった。
グラスワンダーと的場騎手を巡る一連の流れを見て、筆者はもっと当事者の懐に飛び込める記者にならなければいけないと痛感した。こんなドラマのような出来事が目の前で展開しているのに、当事者たちの思いを聞き出さないのは人生の損失だと思えたのだ。
挫折からはい上がったグラスワンダー。言い訳をせず、己の決断の正しさを証明した的場騎手。98年有馬記念は記者の人生にとって、かけがえのない一戦だった。