89年9月10日。迎えた京王杯(現京成杯)オータムハンデ。岡部幸雄騎手またがるマティリアルは、いつも通りゆっくりとスタートを切った。
だが100メートルほど走ったところで外から上昇した。グングン上がって2番手へ。「これは予想外の展開となりました」。アナウンサーも驚く先行策だった。

直線を向く。インを突いたアドバンスモアが先頭に立つ。だが、じっくりとギアを上げたマティリアルが迫る。ゴール前、かわした。首差、岡部マティリアルが先着し、3歳時のスプリングS以来、15戦ぶりの白星を手にした。
珍しく岡部騎手が左腕を上げて喜びを表現した。だが、その数秒後、事態は暗転する。
「右前脚からボキッという嫌な音がした」。顔面蒼白で下馬する岡部騎手。救護車がマティリアルの横についた。岡部騎手はトボトボと足取り重く、検量室前へと引き揚げてきた。「久々にマティリアルが勝ったのでガッツポーズをしてみたけど、馬を壊してはしようがない。ゴールの後、馬がこんなことになった経験はないよ」
診療所の診断結果は「右第1指節種子骨複骨折」。予後不良になってもおかしくない重傷だった。
「何とか種牡馬として残してやれないか」。和田孝弘・シンボリ牧場専務、田中和夫調教師が懇願し、予後不良は免れたマティリアル。同日午後7時半に美浦に戻った。翌11日、手術が行われることとなった。
手術は午後2時40分から3時間に及んだ。患部は種子骨がバラバラ。腱も断裂していた。幸い、管骨と第1指骨に傷がなかったことから、両方の骨にステンレス製のプレートを当て、9本のボルトで固定した。
1時間後、マティリアルは全身麻酔から覚めた。ここでしっかりと立ってくれれば手術は文字通り、成功だ。「立て!」「頑張れ!」。田中和夫調教師、斗沢堅蔵厩務員、獣医師陣が思わず声を出す。マティリアルは死力を振り絞って立ち上がった。抱き合い、握手。栗田晴夫診療課長は「手術は成功しました」と発表した。
まずは第一関門突破。だが、ここからが厳しいのだ。患部は順調なら2カ月で自分の体重を支えられるまでに回復するが、それまでは残る3本の肢に負担がかかる。最も怖いのは、早ければ1週間後に訪れる蹄葉炎の危機だった。加えて運動不足による内臓疾患や、細菌感染症も心配された。
事態が急変したのは手術翌日、12日の午後9時。マティリアルはワインレッド色の下痢便を排出した。出血性大腸炎によるもの。手術の痛みに対するストレスが原因と推察された。繰り返す下痢。マティリアルは立ったまま痛みに耐え、獣医師陣は点滴、酸素吸入、鎮静剤、血行改善剤などで懸命に改善に努めた。しかし…。
89年9月14日、午後6時28分、マティリアルは天に召された。出血性大腸炎による衰弱死だった。
13日には体調が持ち直し、周囲を安心させたが、14日午後に再び悪化。痛みの苦しさから頭を床に自らぶつけるなど馬は精神的に追い込まれた。体温、心拍数、呼吸数などの数値もいよいよ厳しくなり、獣医師陣は安楽死の処置を取ることを決定。田中和夫調教師が了解を取るべく、シンボリ牧場への連絡中に息を引き取った。最後は斗沢厩務員、戸田助手に看取られ、天へと昇っていった。
翌15日、美浦トレセン内の馬頭観音で葬儀が行われた。田中和夫調教師は「心からファンに愛された幸せな馬だった」と語った。
最後まで懸命に生きようとしたマティリアル。壮絶なその生涯は今もなお、我々の心を動かす。心からの感謝と畏敬の念しかない。このような勇敢な馬がいたことを若いファンにもっと知ってもらえたら、本当にうれしい。