玄関先の紳士に話を聞き、いろいろなことが分かった。円城寺地区は以前は一面の田んぼ。人も少なく、厩舎を建設するには最適だった。
近年になって田んぼは宅地となった。整然と区切られた道路は広大な田んぼを宅地化したためだ。
紳士からは「馬は危険だ。馬糞のにおいもきつい」といった話は出なかったが、早晩、そういう話は出るかもしれない(もう出ている可能性はある)。かつての目黒競馬場廃止(府中移転)を思わせる流れだが、やはり円城寺からの移転は、やむなしというところだろう。
いよいよ円城寺厩舎に到着した。すでに使われなくなった厩舎は、まさに廃墟というムードだが、かつて、ここに馬と人がいたのだという生活感は存分に感じる。

遠目だが、小さなほこらも見える。管理馬の安全を祈願したのだろう。
現在も稼働している厩舎群への入り口には可動式の柵があり、警備員もいる。ただ、すでに移動済みの厩舎群の中に、自由に出入りできる地区があった。遠慮しつつ、足を踏み入れてみる。

すると、驚いた。「オグリキャップ」の看板を掲げた厩舎を発見したのである。
ここが、あのオグリキャップを生んだ鷲見昌勇厩舎だったのだろうか。いや、やけに横幅が狭い。
壁は塗り直してあり、他の厩舎とは一見して扱いが異なる。ここに円城寺厩舎があったという跡を残すために、この厩舎だけ保存するのだろうか。だとすれば素晴らしいアイデアである。答えは数年後に分かるはずだ。
厩舎群を出て、ぶらぶらと歩く。馬の運動場があった。北海道・日高や千葉県富里の牧場ではよく目にした運動場をここで見ることができるとは。写真を見てもらえれば分かるが、周囲には建てて間もないと思われる2階建てのピカピカの住居が運動場ぎりぎりまで建っている。
自宅2階の窓を開ければ、馬が運動しているのが見える。それはそれで魅惑の風景とは思うが、いずれ、その風景は失われる。
さまざまなことを思いながら、専用馬道を併設した歩道を戻る。木曽川沿いの土手に到着した。馬だけが登ることができる坂道が見えた。鉄道でいえばスイッチバック式だ。

別の坂を上がり、専用馬道が土手の上の道路と交差する地点へ。朝はここに警備員が立ち、車を止め、馬を渡らせるのだ。この風景も夕方のニュースワイドで見た。土手沿いの車道は相当な交通量で、これは危険だろうな、とは思う。
さまざまなことを考えた。高架式の専用馬道で円城寺厩舎と競馬場を結んだら、どうだったか。土手にトンネルを掘ることは難しかったのか。ただ、円城寺厩舎周辺への住宅の急速な建ち具合を見ると、いずれ住民から苦情が出ることは必至であろう。競馬場近隣の土地が使える形になったのであれば、そこに移転するのは、やはりベストなのだ。


円城寺厩舎の跡地はどうなるのだろう。ネットを探ってみたが、まだ決まっていないようだ。道の駅やショッピングセンター、公園あたりが候補に挙がってくるように思うが、そこでお願いしたいのは“馬のにおい”を残してもらうことである。
ここに確かに笠松の名馬たちがいました、という雰囲気を残してほしい。オグリキャップやフェートノーザン、ラブミーチャンなどが近くに感じられるような場所にしてほしい。例の「オグリキャップ厩舎」を移設、保存できたら素晴らしいと思う。ショッピングセンターにするにしても、どこかに“競走馬の里”のようなゾーンを設けてほしい。

今回、笠松まで足を運んで本当によかった。最も強く思ったのは「廃止にしなかったから今、見ることができて、さまざまに思うことができる。それは幸せなこと」ということだ。
朽ちた厩舎を見て何かを思えるのも、スイッチバックの馬道にワクワクできるのも、そこに存在してくれているから。廃止したら、あっという間に更地にされ、開発され、そこに何があったか思い出すこともできなくなる。関係者たちが懸命に踏ん張って、笠松競馬を継続してくれたから、さまざまなものを目にして心動くことができるのだ。
笠松競馬が永遠に続きますように。できれば、オグリキャップ級のスーパーホースが出てくれないか、と願う。






