休暇を利用して山口県と福岡県を訪れた。山口県での宿泊地に選んだのは山陽小野田市の「厚狭(あさ)」。これでピンと来た方は相当に異常な(?)競馬通である。定年引退を間近に控えた佐々木晶三調教師の出身地だ。理由はこうだ。
師の「晶三」という名前が素敵だな、とずっと思っていた。水晶の「晶」。角川書店の「新字源」(名著!)によれば「ひかり、あきらか、明るくきらめきかがやく」とある。星が散らばり、輝く様子をかたどった“象形”の漢字だともいう。きらめきを放つ名馬を何頭も送り出した指揮官にふさわしいと思えた。

聞けば父の名が「星蔵」だという。うおー。全てが腑に落ち、何という深いインテリジェンスのある名前だと心が動いた。
ということで、師の故郷の夜空は、さぞ満天の星なのだろうと楽しみにして厚狭に宿を取ったのだ。だが、その夜はあいにくの曇り空。星は見えなかった。とはいえ、師が幼少期に見た風景、吸った空気を共有できたかもしれないと思うと、うれしくなった。
師の“オットコ前ぶり”については以前の当欄(25年3月12日)にも記したが、例によって取材ノートを改めてひっくり返したところ、引退前に記しておきたい話を見つけた。
ご存じの通り、師は元々、騎手として競馬の世界に入った。だが、常に減量に苦しんだ。79年桜花賞を15番人気ホースメンテスコで制し、クラシックを制したが、それよりも減量に追われる日々が本当に苦しかった。早く調教助手に転身しようと、そればかり思っていたそうだ。
83年に調教助手へと転身する。縁の下の力持ちとして馬を仕上げる仕事も楽しく思えた。ただ、馬づくりに関して疑問や、“こうしたらいいかもしれない”とアイデアが湧いても、調教師に提言することは無理だった。調教師が絶対という時代だったのだ。
ジレンマに苦しんだ結果、自分が調教師になるしかないという結論に達した。最も近くで世話をしている厩務員や調教助手の言葉に耳を傾け、その上でしっかりと決断を下し、責任を取る調教師になろうと考えた。94年、無事に調教師免許を取得した。
タップダンスシチー、インティライミがバリバリ走っていた頃、こんな話をしてくれた。管理するある馬がオープンを勝った。オープンを勝ち、出走チャンスがあるなら即GⅠへ、という厩舎はいくつもある。「僕はそういうことはしないんだよ」と師は話した。
「この馬は現状、GⅡまでと思ったら、決してGⅠには使わない。GⅠにチャレンジできる力をつけるまではお預け。そういう決断こそが調教師の仕事でしょう」
強い決意を感じた。スタッフに聞くと、担当者と調教師のコミュニケーションはかなり密だという。その上で調教師が最終的な決断を下し、全員が納得し、勝負に徹する。これは成績が上がるはずだと痛感した。
当時はサクラセンチュリー、オペラシチー、コスモサンビーム、マイネソーサリスと厩舎に重賞勝ち馬が目白押しで高い重賞勝率を誇った。コミュニケーションと決断。これが佐々木晶三厩舎のキモなのだと思った。師は統率者でありつつも“仲間”だったのだろう。ある意味、理想的な厩舎の姿のように筆者には見えた。
ジャパンカップ(03年タップダンスシチー)を勝ち、ダービー(13年キズナ)も制した佐々木晶三厩舎は、調教師としてのゴール間際にもラムジェット(24年東京ダービー)を送り出し、競馬の最前線に立ち続けた。栗東が誇る名厩舎のひとつだったなあと、しみじみ思う。






