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2024年09月19日 (金)

1984年 皐月賞©スポーツニッポン新聞社

シンボリルドルフ
Symboli Rudolf

牡、1981年3月13日生まれ
父パーソロン
母スイートルナ(父スピードシンボリ)
馬主/シンボリ牧場
調教師/野平祐二
生産牧場/シンボリ牧場
通算成績/16戦13勝

 シンボリルドルフは1984年、皐月賞、日本ダービー、菊花賞を制し、史上4頭目の三冠馬になった。3頭の先輩三冠馬は菊花賞までに複数の敗戦を経験していた。セントライトとシンザンは3敗、ミスターシービーは2敗していた。一方のシンボリルドルフは一度も負けることなく、8戦8勝の無敗のまま偉業を達成した。

 三冠レースの第一関門、皐月賞に向かう過程で主戦の岡部幸雄騎手は選択を迫られた。皐月賞の前哨戦である弥生賞で3戦3勝のシンボリルドルフに乗るのか、それとも4戦4勝のビゼンニシキを選ぶのか。体はひとつしかない。岡部騎手は迷わずシンボリルドルフを選択し、弥生賞を制した。蛯沢誠治騎手が乗ったビゼンニシキは2着だった。皐月賞も前評判通り、2頭のマッチレースになった。1馬身4分の1差をつけて勝ったのはシンボリルドルフだった。3着馬はビゼンニシキから4馬身離されていた。

 「完全無欠」のシンボリルドルフは皐月賞の後も日本ダービー、セントライト記念、菊花賞と白星を積み重ねた。84年は中央競馬の競走レースが大幅に変更され、距離別体系の整備が進み、重賞レースのグレード制が始まった年だった。管理した野平祐二調教師は「競馬にも絶対があることをお見せしましょう」と豪語してみせた。シンボリルドルフは競馬新時代に現れた理想のサラブレッドだった。

 しかし完全無欠のサラブレッドにも初めて敗れる日がやって来た。菊花賞後に挑んだデビュー9戦目のジャパンカップだった。現在とは違い、ジャパンカップは菊花賞の2週間後に行われていた。3000㍍を激走した後の中1週はさすがに日程が厳しく、シンボリルドルフの体調は落ちていた。カツラギエースの逃げ切りを許し、シンボリルドルフは3着に終わった。続く有馬記念では逃げるカツラギエースをぴったりとマークして競り落として優勝。見事にジャパンカップのリベンジを果たした。

1984年 日本ダービー©スポーツニッポン新聞社

 4歳時に天皇賞・春、ジャパンカップ、有馬記念と3つのGⅠタイトルを積み重ね、5歳初戦は米国のGⅠサンルイレイSとなった。「史上最強馬」に日本調教馬初の海外GⅠ制覇の期待がかかったが、レース中に脚を痛め、まさかの6着に終わった。この時のけがが原因で、そのまま現役を引退した。

1984年 菊花賞©スポーツニッポン新聞社

 シンボリルドルフには4歳年上にシンボリフレンドという兄がいた。シンボリルドルフと同じ野平祐二厩舎に所属した。重賞の京王杯スプリングH(現京王杯SC)を勝つほどの実力馬だったが、激しすぎる性格が災いし、持てる能力を発揮できずに終わった。野平調教師はシンボリルドルフに、シンボリフレンドの二の舞を踏ませないようメンタル面のケアに注力した。それが無敗の三冠、GⅠ7勝という快挙につながった。

 シンボリルドルフが種牡馬になって1年目に送り出したトウカイテイオーは91年、無敗のまま皐月賞、日本ダービーを制して、父に続く無敗の二冠馬となった。骨折のため菊花賞に出ることはできなかったが、復帰後、父と同じくジャパンカップと有馬記念を優勝してみせた。ただトウカイテイオー以外に一流の産駒を出せなかったのは残念だった。

有吉正徳

1957年、福岡県出身。82年に東京中日スポーツで競馬取材をスタート。92年に朝日新聞に移籍後も中央競馬を中心に競馬を担当する。40年あまりの取材で三冠馬誕生の場面に6度立ち会った。著書に「2133日間のオグリキャップ」「第5コーナー~競馬トリビア集」

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