今週のメイン、桜花賞から過去の名勝負をもう1つ、アユサンが勝った13年の一戦を取り上げたい。
今、VTRを見直してもドキドキする。直線を向き、サウンドリアーナの背後からサッと外に出して進路を確保したアユサン。クリスチャン・デムーロの左ムチに応えて残り200メートルで先頭に立った。

そこに外から襲いかかったのがクリスチャンの兄、ミルコ・デムーロが乗ったレッドオーヴァル。残り100メートルでレッドオーヴァルが先頭に立ったように見えた。絶体絶命のアユサンが、そこで手前(軸脚)を替えた。すると、もうひと伸びしてレッドオーヴァルを差し返した。結果は首差、アユサンが前にいた。
「ビッグ・ジョブ!」。クリスチャンはそう叫ぶと、兄ミルコに笑顔を送り、兄の手をつかんで健闘を称えた。兄は喜びと悔しさが入り交じった複雑な表情を浮かべた。
アユサンが勝つまでは、さまざまなドラマがあった。チューリップ賞3着後、美浦に戻らず栗東に滞在。とことんまで攻め抜き、馬体は12キロ減。無駄肉を削ぎ、手塚貴久調教師は「完璧な仕上げ。究極です」と自信を隠さなかった。
だが、アクシデントが起こる。ここまで4戦中3戦の手綱を取り、アユサンのことを最も知る男、桜花賞でも騎乗予定だった丸山元気騎手が土曜の福島で落馬したのだ。急きょ、代役を探したところ、短期免許で来日中だったクリスチャン・デムーロが空いていたことが分かった。JRA・GⅠでの兄弟ワンツーは史上初だったが、事前には予想不可能な、アクシデントによる結果だった。
今や、凱旋門賞を2勝(20年ソットサス、23年エースインパクト)するほどの世界的名手となったクリスチャン・デムーロ。この桜花賞が欧州を含めても初のGⅠ制覇となった。
13歳、年の離れた兄・ミルコがさっそうと馬に乗る姿に幼少期から憧れ、ダイワメジャーでの皐月賞制覇なども中山競馬場で目撃したクリスチャン。母国イタリアで騎手となったが「日本の競馬は世界一だ。チャンスがあれば日本で乗りなさい」と兄にアドバイスされ、まずは11年に地方競馬の短期免許を取得。南関東のダートコースで腕を磨いた。

そこからわずか2年でのGⅠ制覇。人なつっこい兄と比べ、どこか落ち着き払っている弟は静かに物事をやり抜くタイプ。桜花賞でも「出来はいい。中団で折り合えば最後は脚を使うので馬を信じるように」という丸山のアドバイスを忠実に実行した。お立ち台では「丸山騎手のためにも結果を出せて本当によかった」と感謝の言葉を伝えた。
日本競馬がクリスチャンに与えた影響は大きいと思われる。ぶかぶかのジャケットを着て中山に来場し、皐月賞を制した兄に抱きついた、当時12歳のクリスチャンの姿は今も目に焼き付いている。
地方競馬で腕を磨き、代打騎乗で結果を出してGⅠのお立ち台に立ち、今や世界指折りの騎手だ。日本馬が海外の競馬に出走した時、その鞍上にクリスチャン・デムーロがいる時の安心感は絶大なものがある。その安心感の源流をたどっていくと…この桜花賞に突き当たる。