高知競馬で113連敗、「負け組の星」として平成の競馬史に名を刻んだハルウララが、けい養されていた千葉県御宿町のマーサファームで死亡したことが9月9日、分かった。29歳だった。
実は筆者、その少し前からハルウララのことが頭から離れないでいた。
毎朝、見ていたNHK朝の連続テレビ小説「あんぱん」(すでに終了)。主人公・のぶは戦後、速記の技術とたぐいまれな好奇心を見込まれ、地元高知の新聞社「高知新報」にスカウト(自らの売り込みも多少あり)され、雑誌「月刊くじら」の創刊メンバーとして奮闘する。
新聞社の話だから、筆者も当然、興味津々だ。調べたところ、のぶのモデル、小松暢さんが実際に勤務したのは高知新聞だった。
小松さんは高知新聞初の女性記者だという。恐らく当時は全国的にも女性記者は珍しかったのではないか。何という先進的な新聞社と思い、あれこれチェックしていたら改めて気付いたのである。

ハルウララを“発掘”したのは高知新聞社だったということを。
高知新聞社の電子版によれば、ハルウララのことを初めて取り上げたのは03年6月13日の夕刊だった。「1回ぐらい、勝とうな~ハルウララ現在88連敗」。少しばかりあきれた感情の中に愛情もしのばせる、見事な見出しである。
この記事がきっかけでハルウララの名は県内で有名になり、03年12月14日、「ネバーギブアップ・ハルウララ百戦記念特別」当日には、負け続けるハルウララを見ようと高知競馬場に5074人が集まった。無事(?)ハルウララは100連敗を喫した。5000人突破は4年ぶりの快挙だったという。
ここからは皆さんご存じの通り。テレビのワイドショーが取り上げ、武豊騎手を背に106連敗目を喫してフィーバーとなり、ハルウララの単勝馬券は「絶対に当たらない」ということで交通安全のお守りとなった。
同じ新聞記者として心から感心するのは、高知新聞社による第1報である。ナイターで盛り上がる今と違い、廃止か、存続かの崖っぷちに立っていた高知競馬。レースはマンネリに陥っていたはずで、連敗する馬など珍しくなかっただろう。
しかし、その中からどうしても勝てない牝馬を探し出し、「勝つ気があるのか」などと、けなしたり、たたいたりするのではなく、「勝とうよ、頑張ろうよ、俺たちも頑張っているからさ」という寄り添い型のスタンスで報じた。何という素晴らしい感性だろう。
新聞社でデスクを経験した人ならきっと分かってくれる。同じ事象でもセンスのいい人が扱えば、読者の心を動かす記事になる。センスがなければ…そもそもハルウララという最高の素材に気付かない。
つまり、ハルウララ現象は高知新聞の記者、デスクの感性が素晴らしかったからこそ、世に出て、高知という枠をも飛び越えて全国区となったのだ。
これは新聞記者にとって何よりの勲章である。高知新聞電子版はハルウララの死後、過去の記事をこれでもかと再掲しているが、当然、やるべきである。高知新聞の歴史に残る会心の記事だ。もっとやればいい。
と、高知新聞とハルウララの関係について考えながら朝ドラを見ていたら訃報が飛び込んできたというわけだ。「ええっ?」という気持ちになった。
ドラマでは津田健次郎演じる高知新報のデスクが、エネルギッシュに雑誌を作っていた。あんな豪快なデスクが記者にハルウララ取材を命じ、最高の見出しをつけて、世に送り出したのだろうか。競馬史に残る牝馬と朝ドラがつながった、不思議な体験だった。